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第7話 二人の関係 (2)
いつもと同じくらいの時間に笪也は帰ってきた。階段を上がりながら、ただいま、と言うと、台所に立っていた幸祐が、振り返った。
「笪ちゃん、お帰りなさい」
いつもの笑顔だった。今日はその笑顔にキスが出来ると思うと、笪也もいつもより笑顔になった。
笪也が近づくと、幸祐はパン粉だらけの手を見せた。
「今日は揚げ物か。幸祐は何でも作れるんだな」
「お手軽なトンカツの作り方を徳村さんから教わってね」
徳村は幸祐が入社した時から仕事を教え、今は定年後に再雇用された嘱託のベテラン女性社員だ。
「へぇ。楽しみだな」
「まぁ、揚げ物は『権兵衛』には敵わないけどね」
幸祐はそう言うと、横目でチラッと笪也の顔を見た。帰るとすぐに笪也がただいまのキスをしてくれると幸祐は思っていた。自分から催促するのは、まだ恥ずかしさがあった。パン粉だらけの手を洗って、コンロに点火しようと手を伸ばした時、その手を笪也に掴まれた。
「幸祐、火を点けるのは、ただいまのキスをしてから」
笪也は幸祐の首の後ろに手をやって、幸祐の顔を自分に向けさせると、挨拶程度の軽いキスではなく、何度も唇を食んで、舌まで絡ませる濃厚なくちづけをした。
「…ぁん、笪ちゃん」
唇が離れた後に幸祐が出した声に笪也は
「色っぽい声出して…お前は」
と言って、幸祐の頬を包み込んだ。幸祐は顔を赤らめながら、早く着替えたら、と笪也を促した。
「美味いな、このトンカツ」
笪也は思わず声を上げた。
「でしょう…徳村さん、俺が引っ越ししたことを伝えたら、簡単に作れるレシピを色々教えてくれるんだよ」
幸祐は美味しそうに食べる笪也を見て、嬉しそうな顔をした。
「でもね、徳村さんは俺が一人暮らしをしてると思っててさ…誰かと暮らしてるなんて夢にも思わないみたい」
「じゃあ、もし、誰かと一緒に暮らしてるのって訊かれたらどう答えるんだよ」
「笪ちゃんの名前は言えないけど」
「けど…?」
「ううん…いい感じの人と暮らしてるって言うかな」
「なんだよ、いい感じの人って」
「…だってさ」
笪也は恋人とまでは無理でも、せめて大事な人とか大切な人くらいは言ってほしかった。不満に思った笪也は、またちょっと意地悪く揶揄うように言った。
「幸祐ってさ、照れる割りには本当はキスとかするの、好きなんだろ?」
「えぇ…?」
「俺が帰った時さ、キスされるの待ってただろ」
幸祐は少し辟易した。また笪也の意地悪が始まったと思った。ホラー映画の後の天井といい、何かネタを見つけると、揶揄い続けて、自分の反応を見て楽しんでいる。今回もまた、しばらくはキスで揶揄われると確信した。
さっき笪也をいい感じの人と言ってしまったことが、気に食わなかったんだろうとすぐにわかった。こうなるなら曖昧にせず今の気持ちをちゃんと言えばよかった、と後悔した。が今日の幸祐はやられっぱなしではなかった。
「俺は…キスが好きなんじゃなくて、キスをしてくれる笪ちゃんが好きなんだよ…帰ったらすぐにキスしてくれるかなって、ドキドキしてたんだけど…今日はトンカツに負けちゃったかな」
笪也は一撃を喰らって黙った。そしてあたふたして言った。
「おっ…お前なぁ…そんな不意打ちは反則だぞ」
幸祐は、クスッと笑って、べぇっと舌を出した。
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