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第8話 二人の日常 続き(3)
その日の夜、いつものように幸祐が夕飯の支度をしていると、笪也が帰ってきた。
「幸祐、ただいま」
「おかえりなさい、笪ちゃん。今晩はカレーだよ」
「玄関開けたら、すぐにわかったよ。めちゃくちゃいい匂いがしてる」
笪也はそう言って、鍋をかき回す幸祐を後ろから抱きしめた。
「何のカレー?」
「幸祐の愛情がたくさん入った、野菜カレー」
「野菜?…今晩から歩くって言ってるのに」
「うそうそ。笪ちゃんの好きなチキンだよ」
幸祐は振り返り、笪也におかえりのキスをしようとしたが、笪也はそれをひょいと躱した。幸祐は、もうっ、と言って頬を膨らませると、笪也はその頬を突いて、額に軽めのキスをした。
「なぁ、晩ご飯食べたらさ、少し歩いて銭湯に行こうか」
「あっ、そのルートいいかも。汗も流せるし、慣れたらジョギングもありだよね」
「残念ながら、慣れた頃には、俺達はどこに住んで、この辺りはどうなってるかだよ」
「…そうだよね」
残念そうに言う幸祐に、笪也は幸祐の頬を両手で挟んで目を見ながら言った。
「週末に物件探しに行くか」
「うん!」
幸祐は目を輝かせて返事をした。
愛情たっぷりのチキンカレーを食べた後、二人は色違いのスニーカーを履いてウォーキングと銭湯に出掛けた。
まだそんなに遅い時間でもないが、商店街に人はほとんど歩いていなかった。閉店や既に店じまいでシャッターが閉まって閑散としている通りを自転車が抜け道で利用していた。駅周辺の線路の高架化も完成して、尚更人波は向こう側に流れていた。
「ここからの景色も変わったね」
「そうだな」
「この商店街、俺好きなんだけどな…八百屋さんとかお豆腐屋さんとか、なくなるんだよね…この間、お漬物屋さんも閉店してたよ…笪ちゃんの好きな胡瓜の浅漬け、もう食べられないんだよ」
「そっか…美味かったよな、あの胡瓜。これも時代の流れだし仕方ないさ。でもここは会社へのアクセスもいいし、まずはこの周辺で何処か探すか」
「そうだね、そうしようよ」
商店街を歩いて、銭湯の近くまで来ると幸祐が指を差して言った。
「銭湯を通り越したらさ、その先に疏水があってね、朝、その脇道を歩くのが気持ちいいんだ。犬を散歩させてたり、ジョギングしてる人もいてね。今からそこを歩こうと思ってるんだ」
「へぇ、そんなところに疏水があるなんて知らなかったな」
「そうでしょ…この辺りのことは俺の方が詳しいんだよ」
幸祐は得意気に言った。
疏水沿いの道は自転車も通れないように進入口には互い違いに柵が施され、所々の奥まった場所に簡易なベンチもあった。地域住民の散歩にはうってつけの場所だった。
「幸祐、手のひら見せて」
疏水沿いの道に入り誰も歩いていないのを見ると笪也は言った。幸祐は、どうしたの、と言いながら、笪也にパーをしてみせた。
「俺達さ、外で手を繋いだことないよな」
笪也は幸祐の手のひらに自分のを重ねて、恋人繋ぎをした。幸祐の華奢な手をぎゅっと握った。一瞬驚いた幸祐だったが、繋いだその笪也の腕に頭を引っ付けて言った。
「…笪ちゃん…ありがとう、嬉しい」
幸祐も笪也の手を握り返した。その手は大きくて、温かくて、力強かった。幸祐はドキドキした。
「ねぇ、笪ちゃん…俺、初めてキスしてくれた時みたいに、今、すっごいドキドキしてる」
「なんだよ、ウブなこと言って…今からもっと」
「あぁ、それ以上言わないで。もっとドキドキするから」
笪也は、ふふっ、と笑ってまた幸祐の手を強く握った。
幸祐は、これから銭湯に行って家に帰ると、笪也が言ってたように自分が上に乗って、と朝にネットで検索して出てきた騎乗位のイラストを思い出した。そのイラストのようにできるのかと少し杞憂するのだったが、繋いだ笪也の大きな手からは優しさが伝わってくる。薄暗がりではっきりと笪也の表情はわからなかったが、おそらくニヤけているんだろうなと思った。そして、初めての手繋ぎ散歩をもう少し楽しみたくて、今の間だけ誰も通りかかりませんようにと願った。
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