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第8話 二人の日常 続き(8)

 その日の夜。 いつもの時間に笪也は帰ってきた。家の階段を上がると、幸祐はいつもの笑顔で、笪ちゃん、お帰りなさい、と言ってくれたのだが、笪也は、ただいま、とだけ言ってクローゼットの様に設えているスペースに行って部屋着に着替えようと上着を脱いだ。  いつもは、ただいま、と言いながら笪也から幸祐の傍に寄って、ただいまのキスをしたり今夜の献立を訊くのが常だった。ところが、今日の笪也には笑顔はなく、傍にも来てくれないことに幸祐は首を傾げながら台所を離れてクローゼットスペースに行き、笪也が脱いだ上着をハンガーに掛けた。  その幸祐の様子を見ても、笪也は黙ったままだった。ネクタイを緩めようと首元に手をやると、幸祐は正面から笪也の首に手を回して少し背伸びをし、笪也の頬にそっと唇を寄せた。 「笪ちゃん、おかえりなさい…今日はお疲れなのかな?」 「…まぁな」  笪也は目を合わそうとしなかった。 「それじゃあ、寝る前にいっぱいマッサージするね」  幸祐は甘い声でそう言った。その後も笪也の首に回した手はそのままにして、上目遣いで笪也の顔をみつめた。  笪也は別に疲れているわけでもないのに自分を気遣ってくれる幸祐に少しの後ろめたさと、ただいまのキスをしてやれない自分の狭量さを感じつつ、それでも、まだ無愛想のままだった。 「…なんだよ」  幸祐はそんな笪也の言い様にも気にせずに言った。 「今日、休憩室で会った時ね、笪ちゃんって、やっぱりカッコいいなって思った…今みたいな、なんか寡黙な男って感じで、ちょっとドキドキしたよ」  幸祐は帰ってからの笪也の表情を見て、休憩室での笪也の様子を思い出して言ったのだが、笪也は、可愛い声で少し恥ずかしそうに言う幸祐の顔を見ると、森川が覆い被さった休憩室でのあのシーンが頭の中を過り、負の感情が増幅した。 「ふぅん…俺にドキドキしたからお前は森川だけに告知ポスターの貼る場所を訊いたのか?」  幸祐は、えっ、と思った。 「で、その後、森川とあんなに体を密着させて、楽しそうにポスター貼りをしてたって言うのか?」  幸祐は、まさか、と思った。  帰ってくるなり笪也が不機嫌だった理由は、疲労ではなく、会社で森川とほんの数分やりとりしたことへのヤキモチなのか、幸祐の顔はゆっくりと幸せで蕩けるような表情になっていった。 「ねぇねぇ、笪ちゃん…帰ってからの無表情はさ、実はさ、それってさ、本当は」  幸祐は笪也の首に回した手を縮めて、鼻と鼻が引っ付くまで顔を近づけた。 「…や、き、も」  最後の一文字は、口の形だけにした。 「…ああ、そうだよっ…悪いか、ったく」  笪也は投げやりに言うと、幸せそうな幸祐の顎を掴んで、唇をぶつけるように強引なキスをした。そしてこんな感情にさせた仕返しで、この場で幸祐を裸にして、抱き潰してやりたい衝動に駆られた。 「…はぁ…ん」  幸祐は唇が離れた一瞬、息を吸った。そしてまた笪也の唇に塞がれた。激しく深いキスの後、笪也は幸祐の首筋にも吸い付いた。 「…あん…笪ちゃん…もう少し…優しくして」 「うるさい」 「…もう、笪ちゃんは」  幸祐は駄々っ子をなだめる様に、笪也の髪や背中を撫でた。 「笪ちゃん…俺嬉しい…笪ちゃんがそんな感情で俺を抱きしめてくれるなんて…ねぇ、笪ちゃん…今晩は俺、何でも笪ちゃんの言う通りにするよ…笪ちゃんの好きにしていいよ」  従順な幸祐の言葉を聞いて、笪也の嫉妬心は急に冷めていった。  笪也は噛みつきそうな勢いの首筋への吸い付きを止めた。そして幸祐の両肩に手をやると俯き加減に言った。 「…ごめん、なんか…」 「ううん…笪ちゃんは、幸祐は俺だけのものだって思ってくれているんでしょ?…嬉しい…幸せだよ、俺」  笪也は今度はいつものように優しく幸祐を抱きしめた。 「ねぇ、ねぇ、今晩は俺に何してほしい?」 「…お前は」  笪也は幸祐の耳たぶを甘噛みすると、昨日と同じでいいよ、と囁いた。そして、幸祐の頬を手のひらで包み込んだ。 「…ただいま、幸祐」 「ふふっ…お帰りなさい、笪ちゃん。ご飯にしよ」  幸祐は台所に行こうとしたが、振り返って笪也に茶目っ気たっぷりに言った。 「じゃあ、今晩も俺の魅惑の腰つきで、笪ちゃんを満足させてみせましょう」  腰に手をやって、左右にクイクイっと小さな尻を振った。 「バーカ、なんだよそれ。振る方向が違うだろ」  笪也はすっかり機嫌も直り、何だか楽しくなっていた。部屋着に着替えると、こうするんだよ、と前後に股間を突き出すように腰を振った。  それを見た幸祐は笑いながら 「ああん…笪ちゃん、エロいって」 「ふん。これで喜んでるくせに」  幸祐は、もう、と言って頬を少し赤らめた。そしてまた笪也に抱きついた。   「笪ちゃん、大好きだよ」 「俺も、お前が大好きだ…好きすぎて、晩飯の前にお前を食べたい」 「俺のことも好きすぎだし、お腹も空きすぎてるんじゃない?」  笪也は幸祐のダジャレに微苦笑すると、また優しくキスをした。

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