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第9話 健康診断(3)

 健康診断の三週間後、ようやく結果がそれぞれに渡されることになった。  以前は、結果の通知書の封筒をそれぞれの部署単位にまとめて、そこの責任者が個々人に渡していたのだが、数年前、ある女性社員の通知書の紛失騒ぎがあった。その女性は社内一の美人と噂されていた事もあり、瞬く間に社内で騒動になった。間違えて破棄されたのか、ストーカー的ないたずら行為なのか、注目を浴びたいからと自作自演をしたと陰口まで飛び交う騒ぎとなったが、捜索の甲斐なく、結局、見つけることはできなかった。  その翌年からは、通知書は社員個々人で労務課に出向いて受け取ることになった。その際には手渡し人と受け取り人がそれぞれ所定用紙にサインをする徹底ぶりだった。  笪也も普段はほとんど行くことがない、幸祐のいる労務課へ森川と一緒に出向いた。  総務部のフロアーの一角に受け取り場所が設置されていた。事前に幸祐から聞いていた通り、何人もの社員が列をなして受け取りをしていた。  もっと効率的な方法があるはずなのに、と幸祐は愚痴をこぼしていたが、労務課の社員は手際よく作業をこなしていたこともあり、笪也達もすぐに受け取ることができた。 「あぁ…今日は砂田、いませんね」  森川の言葉に笪也はドキリとした。笪也もこっそりと幸祐の姿を探していたのだ。 「そうか…?」  笪也は咄嗟に気のない振りをした。以前、森川は幸祐のポスター貼りを手伝ったことや、何より瀬田の同期であることで、特に深い意味もなく、ただ何となく言っているのだとわかってはいたが、恋人を探している自分の為に投げかけられた言葉と勘違いしそうになった。森川は特に気にした様子もなかった。 「成宮さん、結果どうでした?オプション検査しました?」  早速、封筒の中の通知書を見ながら森川は訊いてきた。笪也も通知書を見た。 「昨年と変わらずだよ」 「成宮さんは、何か運動してます?結構、維持してますよね…腹周りとか」 「いくつだと思ってるんだよ、俺のこと。まだメタボには程遠い。森川こそどうなんだ?学生の時と比べると格段に運動量が減っただろ」 「そうなんすよね…この間、久々に道着を着たら、まぁ動けないの何のって情けなくなりましたよ…お前、本当に学生チャンピオンだったのかって、同期には馬鹿にされる始末で…」 「また、始めたらどうだ?柔道」 「小学生相手の柔道教室とか、お声が掛かればボランティアでたまにしてるんすけどね…膝を怪我して、一応は完全復活したんですけど、なんかもう、キレがなくなったって感じでね…」 「お前にしては、らしくない、言いようだな」  森川は肩をすくめた。すると何かに気付いた。 「アイツくらいなら、まだ投げ飛ばせますけどね」  廊下の向こうから幸祐がこちらに向かって歩いてきた。 「彼は小学生と同等か」 「最近の小学生は体格がいい奴もいるんですよ」  笪也は、内心引っ掛かるものもあったが、クスッと笑った。  近づいてきた幸祐が二人に、お疲れ様です、と軽く会釈をすると、森川は笑いながら言った。 「砂田、お疲れ。今度、俺と柔道しようか」  幸祐は何事かきょとんとしていると、笪也はバレないように幸祐にウインクをした。 「いや、いや、砂田。気にしないでくれ。森川のいつもの冗談だ」  幸祐は、はぁ、とばかりに笑顔を見せることなく何も言わずに立ち去った。     その日の夜、笪也が家の最寄り駅のホームに降り立つと、幸祐が少し前にいた。同じ電車に乗っていたようだった。笪也は幸祐に声をかけた。 「幸祐…同じ電車だったんだな」 「えっ…?あっ、笪ちゃん」 「お前がこの時間なんて、珍しいな」 「うん…ちょっとね。それよりさ、森川さんに柔道のお誘いを受けたんだけど…あれ、なに?」  笪也は幸祐が、うん…ちょっと、と言葉を濁したのは気になったが、話しを進めた。 「あぁ、あれね。健康診断の結果を見て、最近運動してるかって話になってさ、森川は柔道してただろ?で、今はたまに小学生相手の柔道教室でボランティアをしてるって話してたら、お前がやってきてさ」  笪也は思い出し笑いをした。 「体のキレは無くなったけど、幸祐くらいなら今でも投げ飛ばせるって、言ったんだよ」 「酷いな…森川さん。それに笪ちゃんも何で笑ってんの?」  幸祐は呆れた顔をした。 「森川からしたら、お前は小学生程度に見えるんだなと思ったら可笑しくなってさ…だから、まぁちょっと、その…な?」  ポスター貼りのあの時の森川は、困っている学童の様に見えた幸祐をただ助けたに過ぎなかったんだと、笪也は今更だがムキになった自分が滑稽に思えた。 「今回は言葉だけで、森川さんと身体が引っ付いてないから、嫉妬せずに済んでよかったね」  幸祐の言葉は冷ややかでどこか他人事のようにも聞こえた。 「はいはい。その通りです。でもお前って、そんな意地悪な言い方するんだっけ?」 「笪ちゃんとずっと一緒に住んでるからうつったのかもね」 「また、そんなこと言って…どうしたんだよ。俺はお前のことは投げ飛ばさないけど、寝技なら得意だ」  ニヤつきながら笪也は幸祐の顔を見た。 「…悪いけど、今日はなんか疲れてるから、寝技はなしね」  今までも幸祐は些細なことで拗ねたり機嫌が悪くなることはあっても、その言葉や態度の裏には必ず笪也にかまってほしい甘えがあった。が、目の前の幸祐は冷めた言い方をする。笪也は幸祐に違和感を持った。 「ふぅん…まぁ、この時期はお前も大変だもんな。で、お前は健診結果どうだった?」 「えっ…あぁ、忙しくて見る暇なかった」 「じゃあ、家で一緒に見るか」 「あぁ…そうだ、会社の机に入れっぱなしだ」  幸祐は真顔だった。 「そっか…じゃあ、明日は忘れんなよ。なぁ晩飯は久々に権兵衛に行くか」 「そ…そうだね。ハムカツ食べよう…かな」  幸祐の態度がいつもと違うのは明らかだった。冷めているようにも見え、また不安で落ち着かなそうにも見える。笪也は触れないでいた。明日まで様子をみることにした。

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