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第9話 健康診断(6)
翌朝。
笪也はアラームより早く目が覚めた。スマホに手を伸ばして解除をした。幸祐は二人の枕の隙間に顔半分を埋もれさせて、まだ気持ちよさそうに寝ていた。笪也はその頬にそっとキスをして見つめていると、幸祐は目をぎゅっと瞑り、うぅん、と声を出した。
「おはよ、幸祐」
幸祐はゆっくり目を開いた。目の前の優しい笪也の顔を見ると、笪ちゃん、と言って、笪也の胸元に顔を寄せた。
「幸祐…お前、腰大丈夫か?」
笪也はニヤけた顔で揶揄った。
「…もう、笪ちゃんは、朝から…」
幸祐は笪也の胸にぐりぐりと額を擦り付けた。
「幸せだから何ともないよ…それに俺は、誰かさんより若いからねぇ」
「誰が年寄りだって?」
笪也は幸祐の苦手な脇腹をくすぐった。
「あぁ、ごめんなさいっ。笪ちゃんの下半身は十代と同じですぅ…」
「それは、言い過ぎだ」
笪也はくすぐるのを止めて幸祐を抱きしめた。
「幸祐、俺も幸せだ…なぁ、今日会社に行ったらまず村中さんと、江島さんに話すんだぞ。朝、額田さんに会っても…わかってるな」
「うん…わかった。一人で謝りにいかないよ」
その後も、寝床のじゃれ合いはもう少しだけ続いた。
幸祐が出社をした時、既に村中は自分のデスクに着いていた。幸祐は挨拶をしながら、村中に近寄った。
「村中さん、おはようございます。あの…ちょっと」
「あぁ、おはよう、砂田君…どうしたの?」
「実は…あの、一昨日受け取った健診結果なんですけど…僕のじゃなくて、額田さんのと間違えて…」
幸祐は村中にそっと差し出した。
「えっ…嘘…マジ?」
「僕も、すぐに気付けなくて」
村中は幸祐の顔と通知書の入った封筒を瞬きもせずに交互に見た。
「あの…一昨日もらった時に封筒の中をチラッと見て、それでちょっと気になる用紙があって…それ以上は見てなくて。で、昨夜しっかりと見たら、僕のじゃないってわかって。あの、すいません気付けなくて」
「ううん、私の方こそ、間違ってごめんなさい」
村中はすぐに、まだ労務課で預かっている健診結果の通知書が入っているロッカーの鍵を開けた。そして保管箱の中にある幸祐の通知書を見つけた。
「砂田君のがまだここにあったわ」
「額田さんはまだ取りに来られてないんですね」
村中は二つの封筒を手に取り、半透明のグラシン紙が貼られている窓から見える青紫色のカタカナの文字を見比べた。そして、何でこんなに似てるのよ、と溜め息混じりに呟いた。
村中がロッカーの扉を閉めていると、そこに課長の江島がオフィスにやって来た。
「砂田君…課長に報告するから、一緒に来てくれる?」
「はい。行きます」
幸祐は村中の後に続いた。
「課長…おはようございます」
「あぁ、おはよう…何かあったのか?」
江島は出社早々、真剣な部下二人の様子を見て怪訝な顔をした。
「あの…申し訳ありません。健診結果の通知書の渡し違いをしてしまいました」
江島は一瞬息を飲んでから、厳しい声を出した。
「何だって?…どういうことだ。ちゃんと説明しなさい」
村中は幸祐から受け取った額田の開封されている通知書が入った封筒と、さっきロッカーから出したばかりの幸祐の封筒を江島のデスクに置いた。
「一昨日、全社員に渡す前に、その場にいた労務課の皆さんに先に渡した時、誤って砂田君に額田さんの通知書を渡してしまいました。しっかりと名前を確認したつもりだったんですが…」
「あの…僕も受け取った時にきちんと確認していなくて…で、実は、その封筒の中を見てしまって…あ…あの個人情報になるからどう言えばいいのか…その、中を見た時にちょっと気になる用紙があって…本当ならもっと早くにしっかりと確認すればよかったんですが、一日過ぎて昨日の夜に間違だと気付いて…」
江島は、二つの封筒を見て、はぁ、と大きな溜息を吐いた。
「個人情報の取り扱いには十分に注意をするようにと言われているだろう。だからあんな手間をかけて受け渡しをしているのに、職務怠慢だこれは」
村中は、はい、と一言だけで、言い訳はしなかった。
「…確かに、カタカナ表記だとパッと見は、間違いそうにはなるな」
江島は開封されている額田の封筒を取り上げた。そしておもむろに封筒の口を広げて中の用紙を出した。
幸祐は思わず、あっ、と声を出した。
「なんだ?もう開封されているんだ。私も確認をする」
江島はそう言って、幸祐を睨んだ。折りたたまれた数枚の通知書を広げて記載されている内容を目で追った後、手早く封筒に戻した。
「このことは私から額田君に説明をする。いいな。もし額田君が取りに来たら、私に云いなさい。それと、村中さんは受け渡しの業務からは離れなさい」
江島は幸祐にスナダコウスケと記してある方の通知書を渡すと、開封された額田の通知書を持ってオフィスを出て行った。
「本当にごめんね…砂田君」
村中は少しホッとした表情をして、幸祐に改めて謝った。
「額田さんにきちんと謝りに行きたいけど、課長はどうするつもりなのかしらね…しばらくは黙っていた方がいいのかな…」
「あの…僕も、中を見てしまったから謝りたいです」
「…そっか…あのさ、ヤバそうな内容だったの?…」
江島は何かトラブルが起こっても余程の事でない限り自分から手を掛けることはしない。が、さっきの江島らしからぬやり方を村中は訝しんだ。そして額田の健診結果が気になったようだったが、直ぐに思い直した。
「あぁ、ごめん、今のは聞かなかったことにして…個人情報だもんね」
幸祐は、村中に、そうですね、と言うと、昨夜笪也が言ったことを思い出していた。
額田のことは同期の瀬田の上司ということしか知らないが、笪也の言葉では、気難しい人物のようだ。
江島が今回の手渡し違いを穏便に収めるように何か手立てを講じてくれるのか、大した叱責もなく余りにもすんなりと済まされて、幸祐は拍子抜けした気分だった。
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