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第10話 哀哭のはじまり(1)

 その日の昼過ぎ、笪也がいる営業部のフロアーでちょっとした騒ぎがあった。  フロアーの片隅に設えられた会議室から、怒号やテーブルを叩く音が聞こえてきた。しばらくすると、会議室の扉が勢いよく開け放たれ、そこから憤怒の形相の額田が出てきた。  額田は自分のデスクに着くと、強く握った拳をデスクに押し付けて、収まらない怒りのやり場を探しているようだった。  チームのメンバーもとばっちりを食らわないように見て見ぬふりを決め込んでいた。見兼ねた瀬田が声を掛けようとした時、電話の内線音が鳴った。瀬田が受話器を取ると、はい、わかりました、と言って立ち上がった。   「額田さん。呼ばれましたので会議室に行きますね」  額田は憎々しげに瀬田を見て、ふん、と鼻を鳴らすと、フロアーから立ち去っていった。 「瀬田のサブリーダーの話し、額田さんにしたみたいですね」  森川が椅子に座ったまま、キャスターを転がして成宮の傍に来た。 「ああ、そのようだな」 「でも、あの態度はないでしょう。いくら納得出来ないからとしても」 「まあ、額田さんにもそれなりの言い分があるんだろう」 「瀬田もこれから大変だ」  笪也は自分の立場や仕事にあそこまで固執する額田に違和感を覚えた。別に降格を言い渡されたわけでもなく、チームのメンバーがサポートをしてチーム力を強化するだけのことなのに、額田は一体何に脅かされると思っているのか、偶然見てしまった健診結果も何か影響しているのか、思い巡らせていると直ぐに瀬田が会議室から出てきた。  瀬田は微妙な表情をしていた。フロアーに額田の姿がないとわかると、笪也と森川の傍に来た。 「瀬田…お前大丈夫か?」  森川が心配した。 「…あの、サブリーダーなんですけど」  瀬田の口は重そうだった。 「場合によっては、サブじゃなくて、代理だって」 「えっ?…リーダー代理?」  森川は思わず声を上げて、直ぐに口を塞いだ。瀬田は静かに頷いた。 「お前、代理って…じゃあ額田さんはどうなるんだ?…その、場合によるってどういう意味だ?」  森川は矢継ぎ早に訊いた。 「森川。少し落ち着け」  笪也は森川を窘めた。すると、会議室から兼松課長と労務課長の江島も出てきた。  笪也は、そういうことか、とピースが埋まった気分だった。 「まさか、俺も急に代理だなんて言われても焦りますよ」 「だよなぁ…で、どうなるんだ?」  声をひそめて森川は訊いた。 「額田さんの体調次第で、そうなる可能性もあるってことですよ」 「まぁ、確かにここ最近の額田さんは具合が悪そうにも見えるけど」 「この間の健康診断の結果で今度精密検査を受けないとだめらしくて、その結果次第で俺が」  笪也は瀬田を制した。 「瀬田。それ以上は控えろ。まだ、はっきりと決まっていないことを口にするのはよくないぞ」 「…はい。すいません」  瀬田は、森川に唆され軽々しく話してしまったことを反省した。 「森川もだ。人事に関しては、その人のこれからが関わってくるんだから、瀬田を心配するのもわかるが、今のお前はただ興味本位だけに見えるぞ」  ここ最近優しかった笪也の久々の厳しい言葉に、森川と瀬田は顔を見合わせた。 「すいません。調子に乗ってしまって」  「あぁ、分かればいい。瀬田もこれからは大変だと思うが、いつでも森川や俺が相談に乗るからな」 「はい。ありがとうございます」  瀬田は自分の席に行った。 「お前も、いつまで俺の傍にいるんだ?」  森川もすごすごと足漕ぎをして自席に戻った。  額田の健診結果での精密検査のことは、幸祐と自分しか知らないことだ。今朝、幸祐が江島に受け取り違いを報告していたとしても、何故、江島が営業部のフロアーに来て、兼松と一緒に会議室にいたのか。  健診結果という極めて個人情報を今は瀬田までもが知っている。恐らくさっきの会議室の中で江島が話したのだろう。健康診断の結果は会社側も把握すべき事柄ではあるが、あくまで社員の健康管理が目的とされている。会社側の都合のいいように人事の決め事に結果を利用するなどあってはいけない、それなのに、と笪也はこの会社の根本的な企業倫理を憂いた。  笪也が家に帰ると、一階の玄関まで晩ご飯のいい匂いがしていた。 「ただいま、幸祐」  その声を聞いて、幸祐は嬉しそうな顔で階段近くまでくると、笪也に抱きついた。 「笪ちゃん、おかえりなさい。今日ね、朝すぐに村中さんと江島課長に報告したよ。で、俺の結果ももらった…何ともなかったよ」 「そうか。よかった」  部屋中に漂っている匂いで、今夜のご飯は好きな煮込みハンバーグだとわかった。笪也は、幸祐の気遣いが嬉しかった。 「あぁ、腹減った。いい匂いだ」 「じゃあ、着替えてきて。もう、出来てるから」 「ありがとう…好きなの作ってくれて」  笪也は抱きついてきた幸祐の背中に手を回して、離さなかった。 「あぁ…わかった?煮込みハンバーグ」 「わかるよ。何回作ってくれてると思ってるの?」  笪也は幸祐の言葉を待たずに深いキスをした。 「あん…これは食前酒の代わり…かな」 「そうだよ…」  次は頬にも優しくキスをすると、幸祐を解放した。   「朝ね…村中さんが先に出勤してて、受け取り違いのことを話してさ、そしたら江島課長もフロアーに来て、二人で報告したんだ」  食後のコーヒーの時に幸祐は今朝の一連の話しをした。 「俺が、その…びびってしまったから、気付くのが一日遅れてしまったこととか、精密検査の文字のことは村中さんもいたから、気になる結果が見えたって、ぼやかしたのに、江島課長はその場で中を見てさ…俺、驚いて、あっ、て言ったら、睨まれたよ」  幸祐は江島のその時見せた顔を思い出したようで、口をへの字にした。  「でね、もう開封されてるんだから確認だ、なんて云ってさ…いいのかな個人情報なのに」 「会社は社員の結果は把握しておく義務があるんだよ。まぁ、役職者に限ってだけどね」 「それは、わかるけど…村中さんや俺がいる場で大っぴらに見るってのはどうかと思うけど…で、この件は俺が額田君に説明するからって、そのまま健診結果を持ってどこかに行ってさ…」  その後、江島は兼松のところに直行したのだろうと笪也は容易に想像ができた。 「きちんと額田さんに謝りたいねって、村中さんと話してさ…もう少しだけ待ってから一緒に謝りに行くことにしたんだ」 「まぁ、江島さんも、何か考えがあってのことだろう。謝るのはいいが、いく前に江島さんに話してからにしろよ」   幸祐は、はぁい、と言って笪也の肩に寄り掛かった。  笪也は幸祐の髪を撫でながら、この先何も無ければいいが、と思い憂うのだった。

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