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第10話 哀哭のはじまり(7)
額田の問いかけに幸祐が言い淀んでいると、笪也は唐田の反応を見ながら話し始めた。
「俺が止めたんだ…砂田は最初、通知書に心配な言葉があるのを見て、怖がってきちんと見てなかった。で俺が確認をした。直ぐに年齢と名前が違うことに気付いて額田さんのだとわかった。砂田は額田さんに渡しに行くと言ったが、俺が村中さんと江島課長に報告して、額田さんの通知書を戻して自分のをもらうように言った。」
「どうして、そんな余計なことを」
額田は苦々しい顔で言った。
「個人情報の受け渡しミスなのに、個人間で済ますことはできない。それに砂田の通知書をもらうにしても、いずれ砂田が嘘をつくことになる」
「成宮の対応は適切だ」
唐田は頷きながら静かに言った。
額田は膝の上で拳を握りしめた。
「俺は、あの倉庫から砂田と成宮が一緒に出てきた時無性に腹が立った。お前らは江島課長を巻き込んで俺をリーダーから引きずり落とすつもりだと思った。成宮は瀬田の元上司で、砂田は同期だ…だから写真やお前らの仲を言いふらして、その仕返しをしたんだ」
「被害妄想もそこまでいくと、病的だ」
森川が吐き捨てる様に言った。
「森川、口を慎め」
森川は肩をすくめた。一瞬場が静まり返った。唐田が言い続けようとしたが、村中が泣きながら言い出した。
「額田さん!…砂田君はそんな人じゃない。人を貶めるようなことをする人じゃない。私はずっと彼を見てきたからわかります。誤解です。額田さんの健診結果は江島課長が、私たちの目の前で封筒から出して見てたんです。砂田君は結果が心配だなんて、一言も言ってない。本当です。信じて下さい…でも」
村中のグレー杢のスカートの上には何粒もの涙が染みていた。
「でも、元はと言えば、私の渡し違いが招いたことです…本当に申し訳ありませんでした」
村中は深々と頭を下げた。唐田は村中を見て、もういいから、と言うと、額田の方を見た。
「で、額田は再検査に行ったんだろうな」
額田は黙ったままだった。
「何だ、まだ行ってないのか?」
唐田は呆れた。そして腕時計を見た。
「村中さん。今から内科部長の河原崎先生に電話をして、至急、診てもらいたい社員がいると伝えてくれないか」
河原崎医師はこのディ・ジャパンの産業医でもあった。
「唐田の達てのお願いだと云ってくれたら、なんとか都合をつけてくれるだろう。額田、これは業務命令だ。営業部に戻る前に今すぐ病院へ行きなさい」
額田はため息を吐いて、席を立った。
唐田は、それから、と言って笪也と森川を見た。
「君達も営業部に戻る前に総務部に行って、きちんと謝罪をしてきなさい。いいね。江島課長には後で私から話しを聞いておくから」
唐田も立ち上がると、会議室を出た。
笪也を先頭に森川、幸祐、村中が総務部に戻ってきた。投げ散らかした物はきれいに片付けられ、壁側に受話器が割れた電話機や留め具が外れたレターケースなどが置いてあった。
「この度は、お騒がせして本当に申し訳ありませんでした。片付けまでしていただいて、なんてお詫びすればいいのか」
笪也は江島の席で書類をまとめていた徳村に言った。
「江島課長のパソコンも壊れてね。頭抱えて何処かに行ったから、戻ってきたら伝えておくわね」
すると、村中は泣き腫らした目で、ざまあみろ、と言い放つと、河原崎医師へ電話をかけた。
笪也と森川は目を合わすと苦笑した。
もう一度、労務課の社員に謝ると、笪也と森川は総務部のフロアーを後にした。
「森川…今日は助かった。ありがとう」
「そうですね…俺が止めてなかったら、額田さんは今頃は内科じゃなくて、整形外科に受診してたかもしれませんね」
「本当だな…でも、手を出してしまうなんて、情け無いよ」
「そうですか?成宮さんカッコよかったですよ。俺も成宮さんの立場だったら同じことをしてたと思いますよ」
笪也は真剣な表情で森川の顔を見た。
「頼むから絶対によしてくれ…俺はお前を止められる体力はないぞ」
二人で遠慮がちに笑った。
唐田の仕切りで、それぞれの言い分も合わせて今回の騒動の全容はわかったが、笪也は額田の行動の理由がまだ理解できなかった。肉体はおろか精神までも病気で蝕まれていたから、という理由でいいのか。自分にならまだしも、幸祐が江島課長に報告をしたことで、額田は何故あんな低俗な嫌がらせをしたのか。幸祐が額田をリーダーから引きずり落とす理由などないのに。
順序立てて考えても、幸祐は侮辱される謂れはまったくないのだが、一番か弱そうな幸祐に牙を剥いて鬱憤をはらそうとした、としか思えなかった。
唐田は兼松と江島の関係性も見抜いているのかもしれない。江島は幸祐のことを唐田にどう話すのだろう。これ以上幸祐を傷つけたくはない。唐田の考える落とし所は何なのか、笪也は気になった。
昼過ぎ、河原崎医師から唐田へ連絡があった。額田はまず検査入院となった。
河原崎医師からは、入院するまで働かせるのはいかがなものか、受診が後一二週間でも遅れていたら取り返しのつかない可能性もあった、と急な割り込みをしたことへの嫌味も込めて小言を言われたらしい。
唐田は鼻に皺を寄せながら額田のチームに伝えた。そのことを聞いた瀬田は、一瞬嬉しそうな顔をした。笪也はそれを見逃さなかった。
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