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第11話 懲罰人事(2)
一時間前の社長室。
秘書に促され、笪也と唐田が社長室に入ると、その部屋の主は最高級のエグゼクティブデスクから立ち上がり、二人を革張りのソファに座るように勧めた。
二人は失礼します、と一礼してソファに腰掛けた。
「忙しいところ急に来てもらって悪かったね」
社長は鷹揚にそう言うと対面に腰掛けた。
「実は、成宮君にお願いしたいことがあってね」
社長直々にお願いと言われて、笪也は何事かと身構えた。そして努めて冷静を装った。
「どのようなことでしょうか」
社長は咳払いを一度すると、笪也の顔を見た。
「君に、高松フーズに出向してもらいたい。会長がどうしても、創業時の恩義を忘れられないらしくてね」
笪也は、想像すらできなかった社長の下命に言葉を失った。
横でそのことを聞いている唐田は驚きもしなければ、全く何も言わない。笪也は、既に社長と唐田で話しはついている決定事項だと理解した。
ディ・ジャパンの先先代の社長、つまり現会長の父親が創業した時に、随分と高松フーズに助けてもらった、と社長は話し始めた。笪也も入社したての時に、ディ・ジャパンの歴史的なことを聞かされた記憶があった。
創業前の時代、嗜好飲料は、家もしくは店で飲む物で、外に持って出掛けるなど世間一般では考えもしなかった。会長の父親である創業者は先見の明を持った人物で、海外の慣習はいづれ流行ると見込んで、老若男女が気軽にいつでも何処でも楽しめる嗜好飲料の製造事業を始めた。それが、ディ・ジャパンの始まりだった。
高松フーズは、元々地方の豪商の家系で、地元では知らない者はいない名家が営む加工食品の卸問屋だ。各地に営業所を構え、その業界では屈指の会社だった。
創業間もない無名の飲料製造会社のディ・ジャパンにとっては販路開拓が一番のネックだったが、高松フーズの当時の社長とは同学のよしみで、完成した飲料製品のかなりの数を買い取ってくれた。
当時の飲料容器のほとんどがガラス瓶であった時代、配送時の破損リスクや携帯のし易さやを鑑みディ・ジャパンの創業者はスチール缶への変更を試みた。
そのことで、ただ同学のよしみの一助だと言いながらも、高松フーズは自社にとっても商機を掴むチャンスと捉え、ディ・ジャパンを支援した結果、高松フーズにとっても利益をもたらすことになった。
その後もしばらくは両社ウィンウィンの関係が続いた。高松フーズは事業拡大に伴い人員確保のため、そしてある意味、恩を着せるような形で高松フーズへ出向することをディ・ジャパンに要請をしてきた。
その当時は高松フーズの方が業績もよかったこともあり、転籍出向を願い出る社員もいるほどだった。数年毎に何名かの社員が転籍もしくは在籍出向することを、両社のトップ同士で口約束程度の契約をした。
時代も移り変わり、ディ・ジャパンの創業者も代替りをして創業家の中で長男、つまり今の会長が社を継ぐことになった。嗜好飲料は世間の生活様式の変容とともに必要な物と位置付けされてきた。また、技術開発により飲料容器もペットボトルが台頭したことで、その容器の大きさが家族の構成人数や個人のニーズや好みに合わせて最適化されたことで、飛躍的に嗜好飲料は売り上げを伸ばした。
そして、ディ・ジャパンの業績は右肩上がりとなり、会長は機を見て株式を上場し、今の大手企業とまでになった。
が、一方の高松フーズは、業績に翳りが見えてきていた。商売相手は主に商店街や市場などの個人商店だったが、次第にスーパーマーケットが市場を席巻し始め、個人商店はスーパー相手では商売は成り立たず、次々と閉店に追い込まれた。そして新たな取り引き先となったスーパーは大量発注をするからと商品価格を買いたたき、薄利多売を強いられた。それでもメーカーとの折衝でなんとか利益を出していたが、スーパーは次第に問屋を通さずにメーカーから直接仕入れをするようになり、問屋業自体が商品流通において意味を無さない危機的状況に陥りつつあった。
高松フーズは都心部の営業所を閉めたり、人員削減をして事業の縮小を図り、なんとか会社を守ろうと努めたが、一昨年、創業以来初めての赤字決算を出した。そして、昨年も企業努力も虚しく赤字決算となり、このままいくと三期連続の赤字は間違いなかった。倒産だけはなんとか避けたい一心で、ディ・ジャパンの会長に助けを求めてきた。
ディ・ジャパンはまた代替わりをした。今の社長は創業一族出ではなく、叩き上げの人物だ。
創業者同士が取り交わした出向の口約束は、人数が減らされても履行されていたが、出向する社員は即戦力になる人物で、給料の不均衡があればこちら側が補填するなど、我が社にとっては悪しき慣習の何物でもないと、社長就任早々に取り止めることを決めた。
会長も、出向の辞令を受けると即座に退職をする社員が増えてきていることを目の当たりにすると、約束の取り止めもやむなしと、社長の決めたことに口出しはしなかった。
が、二期連続の赤字決算で、高松フーズの社長自らの嘆願に、ディ・ジャパン会長は社長に、昔のことでも恩義はあるから、なんとか誰か出向させてほしいと言い続けていた。仕方なく社長は唐田に内々に誰か高松フーズに出向させられないかと打診をしていた。
社長は笪也が断ることなど考えもしていないように、淡々と話しを続けた。
「二年間の在籍出向で、給料は今と変動なしだ。高松フーズは既に泥舟だ。そんな状況だとしても成宮君ならなんとか打開策を講じて、この難局を乗り越えてくれると見込んでの話しだ。それとは別に、唐田君から聞いたんだが、先日、君はちょっとした騒ぎを起こしたそうだね。そこで手前勝手で申し訳ないのだが、今回の出向は表向きは懲戒処分とさせてほしい。君も知っての通り、通常の出向となるとそれを聞いただけで辞める人間もいるくらいだからね。今回の出向の話しで社員の間で不要な波風を立てたくはないんだよ。成宮君、我が社にとって君に出向を頼むのは正直かなりの痛手なんだよ。だが、高松フーズの社長自ら赴いてきているのに無下にはできない。今期だけでも赤字を回避できれば、高松の社長も納得するだろう。それで本当に高松フーズとの関係は終わりにしたいんだ。どうか、創業家と私の願いを聞き入れてくれないだろうか」
笪也は断れなかった。ディ・ジャパンの社員である以上断る選択肢などなかった。
「わかりました。ご期待に添えるよう鋭意努力します」
「助かった。本当にありがとう。じゃあ、事態は急を要するから、なるべく早く頼むよ…唐田君は少し残ってくれるか」
社長は、笪也の答えは当然のことと言わんばかりの様子だった。そして、笪也は一人社長室を後にした。
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