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第11話 懲罰人事(4)
笪也はまず森川への引き継ぎが最優先事項だと考えた。
二年で必ず戻ると言ったが、あくまでそれは、高松フーズでの仕事が上手くいった場合に限っての話しだ。もし、二年後も赤字決算のままでせっ倒産にでもになれば、出向前と同じポジションで働ける保証は全くない。むしろ、支店に転勤という名の左遷も容易に考えられる。
笪也には、とにかく高松フーズの三期連続の赤字決算だけは防ぐ、もしくはその見通しだけでもつけなければ、この先は無いも同然だった。
笪也は自分の力を試すと決めたからには、まず、自分を信じなければならない。社長室でこの難局に挑むという心構えは、森川に話したことで更に現実味を帯びてきた。
今まで共に頑張ってきたチームが混迷しないよう最善の引き継ぎをして、森川の頑張りに笪也は期待するのだった。
笪也はいつもの時間に家に帰ってきた。
笪也のいつものただいまの言葉に、幸祐はいつもの笑顔でおかえりと言ってくれた。そして、軽く抱きしめてただいまのキスをした。いつもの当たり前と思っていた幸せは、これから話す出向という言葉で、瞬く間に崩れてしまうかもしれない。
笪也は、今夜幸祐に出向のことを伝えるつもりではいるが、せめて後少しの間だけは、いつもの幸せのままでいたかった。幸祐を抱きしめた笪也はいつものただいまのキスよりも、深くて長いキスをした。
夕飯の支度中だった幸祐は、菜箸を持ったまま笪也のいつもと違うキスを黙って受け入れていた。
食後のコーヒータイム。
幸祐はいつものように座っていた椅子を笪也の横に並べて、コーヒーを入れたマグカップを渡した。そして、自分もマグカップのコーヒーを口にしながら、笪也に言った。
「ねぇ、笪ちゃん。何かあった?」
「…えっ…まぁ」
「ねぇ、何?…話してよ」
笪也はいつも通りに振る舞ったつもりでも、幸祐にはわかっていたようだった。
「幸祐…落ち着いて聞いてほしい」
笪也のいつもと違う真剣な言いように、幸祐の顔に緊張の色が走った。
「俺…今日、出向するように言われたよ」
「…えっ…?…出向?笪ちゃんが、出向するの?」
「あぁ、そうだよ。それも早々にだ」
「待って…何処に行くの?…ねぇ、いつから?…ねぇ、笪ちゃん…それ、本当のことなの」
幸祐はありえないことを聞いてしまったように、見開かれた目は瞬きを忘れ、口元が僅かに震えている。
「俺も、今朝、急に言われて…本当のことなんだよ…幸祐」
「ねぇ…それで、いつから?…何処に行くの?」
「高松フーズに来月には赴任することになる」
「…えっ。それじゃあ、あと二週間もないよ…でも、どうして、そんな急すぎるよ」
幸祐の声は切羽詰まって震えていた。
「その…今回の出向は、懲戒処分での出向なんだよ」
「なに、それ…懲戒処分って」
「この間の額田さんの一件だよ。俺は立場ある人間なのに騒ぎを大きくして、額田さんにも多少なりとも手を出してしまった」
「そ…そんな…だって笪ちゃんは…俺のことを」
「あぁ、そうだ。俺はお前を守ろうとした。俺はお前が辛そうにしているのを見て、居ても立っても居られなくなってあんな行動にでた。でも、もう少し冷静にならなければいけなかったんだよ」
「でも、笪ちゃん自身も額田さんに酷いこと言われてさ…冷静になんてなれないでしょう」
「だからと言って、森川に止められるようなことをしてもいいわけはない」
笪也はあの時の額田に向けた感情が甦ってきた。今回の出向とは本当は関係はないのだが、額田の思い違いが憎々しく、また結果として額田がそのような暴挙に出る要因を作った江島も今更ながら許せなかった。
もし、あの時もっと冷静に対応していたら、懲戒という言い訳がなくなり今回の出向は他の誰かに回っていたのか、それとも、他に理由を作って何がなんでも笪也の有能さを見込んで出向させようとしたのか。
引き受けた後で、今更どうでもいいことだが、目の前で涙を浮かべる幸祐を見ると、強烈に心が痛んだ。社長室でのあの野心は幸祐には話せない。幸祐のことを決して蔑ろにしたわけではないが、後ろめたさを感じた。
「幸祐…二年間だ。会社員の宿命だと思ってくれないか…それと俺の不甲斐なさを受け入れてほしい」
幸祐は黙って笪也の胸に顔を寄せた。
「理解はできるよ…笪ちゃん。でも、こんな急に…ねぇ笪ちゃんは、懲戒処分って言われて納得してるの?」
笪也は胸元に濡れたような冷たさを感じた。幸祐はまだ顔を上げない。笪也は幸祐の髪をゆっくりと優しく撫でた。
「今回の額田さんとの一件を会社は懲罰の対象と判断するなら、それは甘んじて受けるべきだと思った。組織の中にいる以上、従わなければいけない。不服はあっても、それを嫌だと言って、逃げるようなことはしたくないんだよ」
笪也は幸祐に初めて嘘をついた。
幸祐、ごめん。
笪也は心の中で謝った。
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