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第11話 懲罰人事(6)
「ただいま、幸祐」
帰ったばかりの幸祐はクローゼットスペースで着替えていると、笪也のその声を聞いて、驚いて振り返った。
「笪ちゃん…早いね、今日は」
「あぁ、急ぎの案件もなかったからな」
「ごめん…夕飯作るのこれからなんだよ。お腹空いてるでしょ?急いで作るよ」
笪也はビジネスバッグを無造作に床に置くと、ネクタイを緩めながら、幸祐の傍にきた。
「夕飯のことよりも…」
笪也は急いで台所に行こうする幸祐の腕を掴んで抱きしめた。
「笪ちゃん…」
「今までのお前だったらさ、飯のことより、俺が早く帰ったことを喜んでくれた…それに今朝だって、いってきますのキスをさせてくれなかったし」
「もう、今朝はトイレに行きたかったから、仕方がなかったんだよ」
いつになく些細なことで拗ねたように愚痴る笪也を、幸祐はやれやれと思いながら、笪也の背中に腕を回した。
「じゃあ、俺を先に食べる?」
「…それもいいけど、やっぱり飯だな」
「もうっ…なんだよそれ」
幸祐は笪也の首に手を回して、キスをした。
「これは、いってらっしゃいのキス…で、それから」
唇を離して、おかえりのキス、と言って、もう一度くちづけをした。
幸祐はこの二年の間で、料理の腕は格段に上がった。味もそうだだが、手際がよかった。冷蔵庫の作り置きや、ありあわせの材料で、あっという間に夕飯を作り、珍しく早く帰宅した笪也を驚かせた。
「幸祐が作るところを、最初からじっくり見たこともなかったけど…すごいな、お前」
「笪ちゃんの、空腹を訴える目力が凄くてね…いつもより急いで作ったよ」
「目力だって?…俺はただ見守っていただけだよ」
笪也は笑いながら食卓を拭くと、料理が盛り付けられた皿を運んだ。
いつもの和やかな食事。
仕事の些細な愚痴を言ったり、流行り物の話しをしたり、少しエッチな話しをしたり、笪也は、今まで当たり前にあると思っていたこの幸せな時間を差し出してまで、自分の力を試そうとしていると、改めて気付いた。
決して間違いではない、人生で必要な選択なんだと何度思っても、目の前の幸祐の笑顔を見ると、正直、気持ちが揺らぎそうになる。が、今のこのチャンスを逃すと、恐らく次は無いのは明らかだ。自分が挑戦したいと思った時は、既に機会を逸しているものだ。
後、数日しかない幸祐との生活で、自分勝手と分かりながらも一秒でも長く幸祐に触れて感じたかった。そして、できるなら幸祐には、懲罰を受ける哀れな恋人を、仕方がないと思って送り出して欲しかった。
食後のコーヒータイムはいつもよりかなり早い時間に始まった。
「ねぇ、笪ちゃん…出向のことだけどさ…」
幸祐は笪也の横に椅子を並べ、コーヒーを一口飲んでゆっくりと笪也に向き合った。
「昨日は、急な話しで、驚いて、動揺したけど…あのさ…俺が会社を辞めて、笪ちゃんと一緒に行くっていうのは、どうなのかな?」
幸祐は、一緒に来てくれ、と笪也が言ってくれないかと一縷の望みを持って話し出した。
「…幸祐、それは」
笪也が言い淀んでいるのをみて、幸祐は、望みは一瞬にして断たれたのを感じた。
「俺さ…まだ、何か信じられないんだよ…後数日でさ、笪ちゃんと、ずっと会えなくなるだなんて」
幸祐は努めて冷静に話そうと思いながらも、笪也の手をぎゅっと握った。笪也もその手を強く握った。
笪也は、幸祐が一緒に行きたいと言い出すだろうと、予想はしていた。だが、いとも簡単にそれは無理だとは言えない。幸祐から諦めてくれるように仕向けるにはどうすればいいか考えた。
「幸祐…俺たちがここに住んでもう二年が過ぎただろ?あっという間だったと思わないか?二年なんて本当にあっという間なんだよ」
幸祐は、笪也は話しを逸らしたと感じた。
「違うよ。それは笪ちゃんと一緒にいたからそう感じるんだよ…ねぇ、笪ちゃんの気持ちを聞きたいよ。俺が一緒に行くのは、駄目なの?無理なの?」
「そうだな…無理だ」
幸祐は、自分と離れ離れになってしまうことへの悲しみや切迫感を笪也からは何故だか感じることができなかった。だが、そのことを口にはしなかった。いや、訊けなかった。
「幸祐…俺は懲戒処分で高松に行く。向こうに行っても、同じ場所でずっと働き続けられるとは限らない、むしろ各地を転々とさせられる可能性は高いんだ」
「だからって…」
「なぁ、幸祐…俺もお前と離れるのは何より辛い…けど、俺たちはこれから先も、まだまだ続くんだよ…だから…だから、辛抱してくれないか」
笪也の心は決まっている、幸祐はそう確信するとそれ以上何も言えなくなった。涙を堪えようと笪也の手を更に強く握った。
「恐らく、明日か明後日には辞令が出ると思う。額田さんの一件での懲戒処分とは明記されないかもしれないが、それで高松フーズへの出向となれば、たぶんちょっとした騒ぎにはなるだろう。幸祐に何か云う奴もいるかもしれないが、どうか許してほしい」
幸祐は今ここで自分に向かって話している笪也に違和感を覚えた。まるで業務連絡の様に淡々と話しているように聞こえた。キスをしてくれないと拗ねた笪也とは別人に感じる。
笪也は出向に向けて既に気持ちを切り替えている、自分との生活を一旦終わらせようとしている、信じ難い現実が近づいてくる。辛く苦しい思いが幸祐の心の中にじわじわと広がっていった。
「わかったよ…もういいよ…笪ちゃん。でも…でも、俺…やっぱり、嫌だよ…離れたくない」
幸祐は涙声でそう言うと、椅子から立ち上がり、シャワーをしに行った。
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