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第12話 別れ(1)

 翌日。  その日も、朝から噂話しは絶えることはなかった。 特に用事もないのに、わざわざ総務部にやってきて幸祐を遠目で見ては、何やらコソコソと話しをしてフロアーを出ていく、そんな社員が後を絶たなかった。    村中は幸祐が離席をすると急に話し出した。 「暇なんだか知らないけど…本当にいい加減にしてほしいわ」 「まぁ…そうカッカしないの…そのうち違う話題を見つけたら、静かになるわよ」  そんな社員達を睨みつけるように村中が言うと、徳村は村中を宥めた。それでも気持ちが収まらない村中は続けた。 「徳村さん…砂田君は被害者ですよね?…私にミスされて、江島課長に嘘を言われて、額田さんから嫌がらせを受けて…それなのに、あんな好奇の目で見られて」 「そうね…その通りよ。だから私たちは普通でいなきゃいけないのよ…一番辛いのは誰かわかるでしょう」  村中は、目をつぶって大きく息を吐き出すと、そうでした、と言って、自分の頬を両手で何度か叩いた。そしてまたパソコンに向き合った。    その頃、営業部でも、瀬田が笪也の出向の話しを聞いて呆然としていた。  いつかは笪也のビジネスパートナーになりたいと思いながら、額田の理不尽な態度にも我慢に我慢を重ねて耐えてきた。そして、ようやく今、その苦労が報われそうなところまで辿りついた。チームのリーダー業務を任せてもらえるまでになったのだ。今までとは違うステージで仕事ができると自信とやる気を漲らせていた矢先のことだった。思わぬ笪也の出向で、叶わぬこととなってしまった。まさに青天の霹靂だった。    瀬田はこの事実をまだ受け止めきれずにいた。何も考えられない頭の中では、この惨すぎる現実を自分の中に落とし込むには、それを怒りの感情に変えるしかなかった。そしてその怒りの矛先は、ゆっくりと幸祐へと向かっていた。    終業後、幸祐は帰り支度を済ませて足早に総務部のフロアーを出た。  週末の金曜日、幸祐は明日からの土日は恐らく笪也と一緒に過ごせる最後の休日だとわかっていた。少しでも早く家に帰りたかった。出向までの残された時間を笪也と少しでも一緒にいる為に使いたかった。    エレベーターが一階に着き、ビルのエントランスに向かって歩いていると、幸祐は誰かに呼び止められた。声が聞こえた方を見ると、瀬田が冷ややかな目でこちらを見ていた。 「砂田、ちょっといいか」 「うん…あんまり時間ないんだけど」 「すぐ終わる」  幸祐の言葉に耳を貸そうともせず、瀬田はそう言ってビルを出た。ビルの前広場の植栽傍のベンチまで来ると、幸祐に向かって顎で指図して座らせると、自分はその前に立って、幸祐を見下ろすようにして言った。 「お前、成宮さんとはいつからなんだよ」  幸祐は、呼び止められた時からたぶんそのことを言われると思っていた。 「一緒に住み始めたのは、二年前からだよ」  瀬田は、二年前と聞いて、奥歯を噛み締めた。  それは、笪也のチームから外されて、新しくリーダーになった額田のチームメンバーになったちょうどその頃だった。額田のチームに配属されて消沈している時に、目の前のコイツは日々楽しく過ごしていたのかと、益々怒りが込み上げてきた。  鼻の穴を膨らませながら息を吸い込み、静かに吐き出すと、お前な、とゆっくり話し出した。 「何であの時、成宮さんのことを、たっちゃん、なんて言ったんだ。何が、たっちゃんやめて、だ。本当にいい加減にしろよな。ここは職場だぞ、そんなこともわからなかったのか?お前がバカなことを言ったから、額田さんは調子に乗ってエスカレートして、成宮さんに向かってあんなことを言ったんだろうが。それに森川さんまで巻き込ませて、騒ぎになって、で、成宮さんは…」  瀬田は一息で言うと、俯いて聞いている幸祐を憎々しげに見下ろした。   「国立大卒でちょっとばかし可愛い顔してるからって、女子社員からチヤホヤされて…お前マジで調子にのるなよ」 「別に、調子に乗ってなんかいないよ…ただ、あの時は、成宮さんが額田さんに本当に手を出しそうで、思わず言ってしまって…俺は、その…家では成宮さんのことを、笪ちゃん、て呼んでいるから」  瀬田は幸祐の言い返しを聞いて、頬がヒクヒクと引き攣っていた。   「お前、成宮さんと…付き合ってるんだな?そうなんだな?」  幸祐は仕方なく、黙って頷いた。  瀬田は、くそっ、と悪態をつき、そして、少し黙ったあと、急に瀬田は下卑た笑いをした。   「なぁ…成宮さんて性欲が強いだろ」  幸祐は、思わず顔を上げて瀬田を見た。その顔はあの時の額田と同じだと思った。   「成宮さん、お前と付き合う前から酒の席でいつも言ってたよ『俺は性欲が強いから、毎日抜いてるんだ』ってな。で、酔った勢いで抜くの手伝ってくれよって、誰にでもよく言ってたよ。でさ、お前はそのお手伝いをしてたんだろ?」  さすがに幸祐も瀬田の言い様に我慢できなかった。 「成宮さんはそんな人じゃないよ。俺たちは…俺たちは、お互いに好きで付き合ってるんだよ」  幸祐が、そう言い放つと、瀬田は牙を剥いた。   「はぁ?…お前ごときが本当に成宮さんに愛されてるとでも思ってたのか?何でお前なんだよっ!バカじゃないの?お前はただの道具だよ、大人の道具。成宮さんの性欲を満たすだけの道具なんだよ。その道具が成宮さんのこれまでのキャリアを汚すんじゃないよ。マジでムカつくわ。成宮さんがこの会社にどれだけ必要な人か、道具のお前にはわからないだろ。なぁ、お前は人畜無害の奴だから、仲良くもしてやってたけど、こんなことなら、もっと前に叩きのめしておくんだったよ。おい、お前、ここ辞めろよ。成宮さんのこと思ってんだったら、今すぐどこかにいけよ。汚らわし道具はここには必要ないんだよっ!」  瀬田はそれだけ言うと、ビルのエントランスに向かって走り去っていった。  幸祐は茫然とベンチに座っていた。  これまでの人生で、あんなに酷い口撃をされたことはなかった。言われた言葉を自分なりに頭で考えようとしても、心が追いつかなかった。  そして、どのくらいの時間が経ったのだろう、ベンチの傍を歩いていた女性達の甲高い笑い声で我に返り、ようやく立ち上がった。    瀬田が言った、お前は性の道具だ、という言葉だけが幸祐の頭の中をグルグルと駆け巡っていた。  それから、どの信号を渡って駅に行き、電車のどの車両に乗り、着いた駅のどの改札口を通り抜けたのか、気が付いた時、幸祐は家の前まで帰ってきていた。

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