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第12話 別れ(2)
幸祐は玄関の鍵を回して扉を開けると、笪也の靴があった。笪也は先に帰ってきているようだった。
幸祐は、笪也も出向までの時間を少しでも自分と過ごしたいと早く帰ってきてくれたんだと思い、急いで階段を上がった。
「笪ちゃん、ただい…ま」
笪也は、クローゼットスペースで出張用のカバンに着替えやらを詰めている最中だった。
「あぁ、幸祐。おかえり」
笪也は振り向きざまに言いながらもパッキングの手は動かしていた。
「…ねぇ、笪ちゃん…何してるの?」
幸祐の顔は凍りついていった。
「あぁ…部長に急に言われてさ、明日から一泊で高松フーズに挨拶で行くことになったんだ。日曜日の夕方には帰るよ。で、明日、始発に乗って行くから、急いで準備をしているんだよ」
こともなげに言う笪也を幸祐は信じられない表情で凝視した。
「…笪ちゃん…一泊で行くって…俺たちにとって一緒に過ごせる最後のお休みだったんだよ」
笪也、ふぅ、と息を吐いた。
「幸祐…それはわかってるよ…でも、向こうの都合でどうしても明日しか無理だって言われてな」
玄関扉を開けた瞬間、笪也の靴を見て心が浮き立った。瀬田にあんな酷いことを言われても、笪也は自分と過ごせる時間を大切に想っていてくれたと感じただけで、嬉しかった。が、実際はそうではなかった。笪也は急な出張案件に対応しているにすぎなかった。
その場から動けないでいる幸祐を見て、笪也は手を止めて幸祐の傍にきた。幸祐を抱きしめて慰めようと、幸祐の肩に手を伸ばした。
幸祐はその手を振り払った。
「ねぇ。笪ちゃんは、どうしてそんなにあっさりと気持ちを切り替えられるの?俺達毎日触れ合っててさ、それなのに急に二年間も会えなくなるんだよ…俺は想像もできないよ、笪ちゃんがいない生活なんて」
幸祐は、今まで苦しくても我慢していた本心を笪也にわかって欲しくて、なりふり構わず話し出した。
「ねぇ、笪ちゃんにとって俺は何?ねぇ、俺のこと愛してくれてたんだよね?笪ちゃんは俺と離れ離れになっても平気?仕事があるから平気なの?向こうに行ったら俺のことなんて、もうどうでもよくなって、他の誰かと仲良くなるの?ねぇ、答えてよ。俺は笪ちゃんの何?俺は遊び相手?笪ちゃんのただの性処理の相手なの?その道具に過ぎないの?」
幸祐は何かに取り憑かれたように、思ってもみない言葉を笪也に吐き捨てた。
笪也は、幸祐が瀬田にお前は道具だ、と言われたことなど知る由もなく、その表情はみるみる変わっていった。そして、そのことにも気付かずに幸祐は言い続けた。
「離れ離れになると、俺はもう、用済みってことなんだ。だから、出向するのも本当はなんとも思ってないん」
バチンッ。
幸祐は最後まで言えなかった。笪也は幸祐の頬を叩いた。
「俺たちは真剣に愛し合ってたんじゃなかったのか?俺たちが一緒に過ごしたこの二年間をお前はそんな…そんな言葉で言ってしまうのかっ!幸祐っ!…どうなんだっ!」
幸祐は笪也のあまりの激昂振りに、自分がとんでもないことを言ってしまったんだと気付いた。
「ごめん…笪ちゃん…ごめんなさい…本当にごめんなさい。俺、どうかしてた…そんなつもりないよ…ごめんなさい…許して…ねぇ、笪ちゃん」
叩かれた方の頬を押さえている幸祐の手は震えていた。そして両方の目からは涙が溢れていた。
「もう、いい。俺たち少し距離を置こう…俺には冷静になる時間が必要だ」
笪也は、許せなかった。離れ離れになってしまうこの状況が幸祐にそう言わせているのだとしても、それでも笪也は許せなかった。
笪也は残りの荷物を鷲掴みするとカバンに詰め込み、上着を着た。幸祐には目もくれずに階段を下りた。
幸祐は追い縋るように、何度も謝った。
「ねぇ、笪ちゃん、待って…ごめんなさい。笪ちゃん、待って、お願い…ねぇ、笪ちゃん…笪ちゃん…ねぇ、笪ちゃんってばぁ…ねぇ…」
扉は閉まった。
閉めた扉の中から、幸祐の絞り出すように、笪ちゃん行かないで、と泣き叫ぶ声が聞こえた。
笪也はその泣き声などまるで聞こえないかのように駅に向かって歩いて行った。
駅前は週末ということもあり、これから飲みに繰り出そうとしているサラリーマンや学生で賑わっていた。
その喧騒の中、聴こえるはずなどないのに幸祐の声が聞こえた…気がした。まだ笪也の耳の奥に残っていた。笪ちゃん行かないで、という幸祐の哀切な声が。
笪也は鞄の持ち手をぐっと握りしめて改札口をくぐった。
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