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第12話 別れ(3)

 笪也は大学時代の友人の河野の家にいた。  笪也は駅の改札口を通った後、あれから河野に電話をして、一晩泊めてほしいと頼んだ。河野は笪也のその声で何かあったとすぐに察した。笪也は少し時間を潰した後、ビールを買って河野の家の最寄り駅で河野と待ち合わせをした。  河野は笪也の大きなカバンを見て、痴話喧嘩でもして家出してきたのか?と心配しながらも揶揄った。笪也は、それくらいならよかったんだけどな、と消沈していた。    笪也は河野の家に入ると、ソファに座るなり買ってきたビールのタブに指をかけた。 「何があったか知らないけど、悪酔いするなよ。まだ何も食ってないんだろ?ラーメンでも作ってやるから、ペース落とせよ」   河野は、ネクタイを緩めながら勢いよくビールを流し込む笪也を見て言った。笪也は缶の半分くらいで一旦、缶を口から離すと手の甲で口元を拭った。そして、なぁ、河野、と言ってゆっくりと話し始めた。     「まさかさ、あんなことを言われるなんて思ってもみなかったよ…道具だって。信じられるか?」  笪也は次のビールに手を伸ばした。 「本心じゃないに決まってるだろ。幸祐君も誰かに吹き込まれたんだよ。例えば、お前の社内の隠れファンとかにさ」 「はぁ?なんだよそれ」 「いいか?お前はさ、お前が思ってる以上にモテ男なんだよ…もう少し自覚しろ」 「知るかよ…そんなこと」  笪也は、じっと手のひらを見つめた。   「初めて幸祐を叩いてしまったんだ…アイツ目に涙いっぱい溜めてさ、プルプル震えて…でも、許せなかったんだよ」 「…お前、幸祐君のことは真剣だったもんな…まぁ、許せない気持ちもわかるけど、幸祐君がそんなことを言うわけがないって、少しも思わなかったのか」 「今は思うよ。でも、その時はな…俺もズルいんだよ…本当は自分の力を試したいだけなのにさ、仕方なく出向するみたいなことを言って、幸祐に嘘言ってさ、なんかそのことを責められてるような気がして逃げたかったのかもな」  「でも、ノンケの幸祐君をこっちに引っ張ったお前は、ちゃんと責任を取る義務はあるぞ」 「だから、義務ってなんだよ」  笪也は不機嫌そうに言った。   「例えだよ…だからさ、もっと早く俺に幸祐君を紹介しとけばよかったんだよ」 「何でだよ」 「お前が出向している間、幸祐君が淋しくないように俺が話し相手になってあげるんだよ。そしたら二年なんてあっという間だ」  笪也は河野を睨んだ。 「お前、出向の間、幸祐に絶対手を出すなよ」 「当たり前だ。名前しか知らない子にどうやって手を出すんだよ…ったく」  笪也は、ふんっ、と鼻息を出した。 「この出張から帰ったら、まず、幸祐君に叩いたことは謝れよ。で、ちゃんと幸祐君に自分の力を試したいことを説明しろよ。幸祐君も絶対にわかってくれるから…こんなふうに一人置いてくるのは良くないよ……ごめん、いいわけないの、タツが、一番よくわかってるよな」  笪也はビールを飲み干した。   「ああ、わかってる…わかってるんだ」 「ならいい…明日は早いんだろ?それ食ったら風呂入ってもう寝ろよ」  笪也は、そうする、と言って、延びかけのラーメンを啜った。    二日後の日曜日の夕方。  笪也は出張から帰ってきた。玄関の扉を開けた。階段を上がった。  笪ちゃん、おかえりなさい、という声は聞こえてこない。幸祐の姿はそこにはなかった。    何となく、笪也は、帰りの車中でそんな気はしていた。    クローゼットスペースにカバンを置いた。ハンガーラックにはいつも掛かっている幸祐のスーツがなかった。幸祐が使っていた引き出しの中も空っぽだった。  もう一人の主を失った部屋に、夕陽だけがひっそりと差し込んでいた。  笪也は食卓にメモが置いてあるのを目にした。それには、幸祐の字で、会社を辞めることと、家の鍵は権兵衛の大将に預けたこと、そして、最後に、ごめんなさい、と書かれていた。  笪也は食卓に手を突いて、はぁ、と深い息を吐いた。そして、ビールでも買ってくればよかった、と思いながら、水を飲もうと冷蔵庫を開けた。  冷蔵庫の中に、幸祐がいつも作り置きを入れていたタッパーが何個も重なって入っていた。その全てのタッパーに付箋が貼られて、昨日と今日の日付が書かれていた。  笪也はその一つを取り出して、蓋を開けた。中に、笪也の好きな煮込みハンバーグが、ぎっしりと入っていた。  笪也はタッパーの縁を持ったまま、動けずにいた。    離れることは、わかっていたはずだった。だが、離れると、別れるは違う。これは、別れなんだと思った。幸祐は、離れ離れになると言い続けていたが、最後は別れを選んだ。メモに、ごめんなさい、と一言だけ記して、行ってしまった。  笪也は涙が溢れ出て、止まらなかった。    静まり返った部屋で、幸祐、ごめん、と言った。

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