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第12話 別れ(4)
週明けの月曜日。
幸祐は、祖母の家からまたバスと電車を乗り継いで出勤した。
昨日の午前中に衣類をまとめ、宅配業社に祖母宅へ配達を依頼し、権兵衛の大将に家の鍵を託した。金曜日の夜から昨日まで、散々泣き明かし、もう出る涙はないと思っていても、最後に施錠した時はまた泣いた。
祖母には心配をかけないように、少しの間また世話になるね、と笑顔で言うと、じゃあ今晩は幸祐ちゃんの好きなおかずを作るわね、と祖母も笑顔を返してくれた。
総務部のフロアーは、ほぼ誰も出社していなかった。幸祐は二年前を思い出した。いつも一番のりだったな、とカバンを机の上に置くと、声を掛けられた。
徳村だった。
「おはよう、砂田君。今朝は早いわね」
「えっ…あっ、徳村さん、おはようございます」
幸祐は今朝一番で、辞表を出すつもりだった。
まだ、誰もいないフロアーでなら、徳村にもそのことをきちんと話しができると思った。
「あの…徳村さん、少しいいですか?」
「うん?…どうしたの?」
「僕、ディ・ジャパンを辞めようと思って…今日辞表を出すつもりなんです」
徳村は、そっか、と言いながらパソコンを起動させた。遅かれ早かれ砂田はそういう決断をするだろうと、徳村にはわかっていたようだった。
「で、いつ辞めることにしているの?」
「…ご迷惑だと承知していますが、できれば今すぐにでも辞めたいんです」
「まぁ…そうよね…ちょっと待ってね」
徳村はパソコンに向かうと、クリックしながら幸祐に社員番号を訊いた。
「砂田君…あなたほとんど有給休暇を使ってないから、辞めるんだったら有給消化をしてからにした方がいいわよ…辞表は今日提出したとしても、退職日は…と」
徳村はカレンダーを見ながら、有給日数と退職日をメモに書いて幸祐に渡した。
「えっ…?こんなに有給あったんですか?」
「もう、社番入力したらいつでも確認できるでしょう」
徳村は呆れながら言った。
「退職日をこの日にしたら、二ヶ月分の給料とボーナスは支給されるわよ。どうせ辞めるんだったら、使えるものは使って貰えるものは貰って、砂田君には権利があるんだからね」
「はい…ありがとうございます」
「有給届けと退職届けの用紙、今、用意するわね」
徳村に見守られながら、幸祐はそれぞれの所定の用紙に記入した。ただ、退職届けの理由欄を書く時は手が止まった。
「あぁ…そこはね、一身上の都合でいいのよ…それか江島課長の不適切な対応とでも書く?」
徳村は悪戯っぽく言った。
「そうですね…最後だから書きましょうか」
幸祐もクスッと笑った。徳村はその幸祐の顔を見て少し安心したようだった。
二つの届け出の用紙を書き終えた頃、村中が出社した。おはようございます、と、二人の様子を首を傾げるように見ながら挨拶をした。
「村中さん、おはようございます」
幸祐は笑顔で応えた。
「砂田君、今日は早いんだ。何書いてるの?」
村中は幸祐の手元を覗き見た。そして、目を見開いて、嘘、と言ったきり、黙ってしまった。
「村中さん…砂田君も真剣に考えてのことだから…後は私たちでサポートしましょうよ」
徳村は、その場で動けずに固まったままの村中の背中を優しく摩った。
「砂田君…ごめんなさい…私のミスのせいで、砂田君の人生を狂わせてしまった…本当にごめんなさい」
「村中さん…もう謝るのは止めにしてください…村中さんが悪いわけじゃないですよ。村中さんのせいでディ・ジャパンを辞めるわけではありませんから…本当ですよ…僕も僕なりに色々考えての決断なんですから」
「…でも」
村中が涙を拭っていると、江島課長がデスクに着いた。
「砂田君、来たわよ」
徳村が江島に気付いて幸祐に言った。
「はい。渡してきます」
幸祐は毅然として、江島のデスクの傍に行った。
「江島課長、おはようございます」
「ああ。おはよう」
幸祐をチラッと見ただけだった。
「あの、突然で申し訳ありませんが、これを」
幸祐は有給休暇届けと、退職願と書いた封筒を差し出した。
江島は、退職願の文字に気付き、幸祐の顔を今度はじっと見た。
「砂田君…辞めるのか?で、いつ辞めるつもりなんだ?」
「はい。今日から有給休暇を使わせてもらいます。翌々月の15日を退職日とさせていただきたいです。ご迷惑をおかけしますが、宜しくお願いします」
「そうか…」
そこに徳村が話しに加わった。
「課長、砂田君の仕事に関しては村中さんと私できちんと引き継ぎを行います。業務が滞らないよう最善を尽くしますので」
「とは言ってもだね、さすがに今日の今日は…」
「課長。彼は今まで有給もほとんど使わずに真面目に仕事に取り組んできました。彼の今の状況を斟酌していただけないのですか」
徳村の強い言葉に、江島は尻込んだ。
「わかった。人事に出しておくよ。引き継ぎは漏れの無いようにね」
「ありがとうございます」
幸祐は深々と頭を下げた。そして徳村にも頭を下げた。
「さぁ、午前中に引き継ぎをして、午後からは自由の身になるわよ、砂田君」
「はい。ありがとうございます。ご迷惑をおかけしますが、引き継ぎよろしくお願いします」
幸祐はそう言って、村中にも頭を下げた。
引き継ぎはスムーズに行うことができた。普段から正確かつ丁寧に仕事をしていた幸祐は、書類のファイリング一つをとっても、徳村と村中を感心させた。
昼休み前に引き継ぎが終わった。
幸祐は私物をまとめて、用意していた大きめの袋に入れた。その姿を見て、村中がまた、涙声で話しかけた。
「砂田君…今までありがとうね。こんな頼りない先輩だったけど、いつも気遣ってくれて」
「そんな…僕こそ本当にお世話になりました。あっ、この間の美味しいものを食べさせてくれる約束、まだ無効になってませんか?」
村中は、もちろん、と言って幸祐の手を握った。
幸祐は、最後に江島のデスクに行くと、お世話になりました、と挨拶をして、労務課の他の社員にも頭を下げた。
幸祐が総務部のフロアーを出て廊下を歩いていると、その後ろを徳村が追ってきた。
「砂田君…余計なお世話だとわかっているけど…少しだけいい?」
幸祐は、はい、大丈夫です、と応えると、徳村は少し歩いて場所を移した。
「砂田君…ちゃんと寝てないでしょ…腫れぼったい目をしているし…」
徳村は子供を思い遣る母親の様な表情で幸祐をみつめた。
「徳村さんには、いつも、ばればれですね」
幸祐は肩をすくめて笑った。
「ねぇ、砂田君。辛いことはね、無理にでも吐き出さないと澱のように心の奥底に溜まっていくのよ。心にまだ少しでも力があるうちにね、頑張って吐き出すの。そうしないと、そのうち自分ではどうにもできなくなるものなのよ」
幸祐は、徳村には全てを見透かされていると感じた。
「以前、話したと思うんだけど、うちの主人が喫茶店してるって…」
徳村は、『トッキー』と店名が印された生成り色のショップカードを渡した。
「私もね、土日はお店に出ているのよ…だからね、話しにいらっしゃい。あなたよりも倍以上生きているおばさんの言うことを聞いて、吐き出しにいらっしゃい。待ってるから」
幸祐は、はい、とだけ言って、口を真一文字に結んだ。涙を堪えた。カバンの持ち手を強く握った。
「じゃあね。しっかり食べて過ごすのよ…待ってるからね」
幸祐は、何度も頷いて、エレベーターに向かって歩いて行った。
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