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第13話 トッキーにて(2)

「人が集まると、どうしてもくだらない人間関係も生まれるんだよ。瀬田君は砂田君を貶むことで、自分の心の均等を保とうとしてたんだな。愚かな行為だといつかは気付くかもしれないが、その時は仕方がないんだろうね」  マスターは悟ったように静かに話した。   「それにね、砂田君もこれから経験するだろうけど、人生において、どうしても今しかないって時があるんだよ。理屈とかじゃなくて、自分の直感というのかな…それに従わざるを得なくなってしまうんだよ」 「そうなの?」    良子はマスターの顔を見た。   「この店もそうだよ」 「あぁ…そう言えばそうね」    良子は懐かしむように話し始めた。 「定年後に二人で喫茶店を始めようって、昔から話してたんだけどね…この人ったら急に、定年前に会社を辞めて店を出すんだって言いだしてね…それから、毎日、ああだこうだと言い合いしてね、険悪な時もあったけど…でもね、今振り返るとこれでよかったんだって思えるのよね…」  マスターはかつて自分が決断した経緯を話し始めた。 「私たちがディ・ジャパンに入社した当時は、入社早々格付けみたいなのをされてね、特に男は配属部署によって、その人の会社における価値を決められていたんだよ。私はね、一流大学を卒業したわけでもなかったから、当然、下っ端扱いだった」  今の会長が社長時代の話しだった。多々ある部署でも営業部が社内のエリートとされていた。陰で権力を握るのが人事部で、そして総務部は裏方扱いだった。その中でも、マスターが配属された庶務課は別名雑用課とも云われていた。 「営業部はとにかく花形部署でね。国立や一流私立卒ばかりが集まった部署だったよ。私は総務部に配属されて、まぁ、そこで良子さんと仲良くなって今に至るわけだけどね」  マスターは良子を見て微笑んだ。   「営業部にはね、営業部に配属された、ただそれだけで自分はエリートだと勘違いしている輩が多くてね、何かにつけて偉そうに言ってきて、総務部はいつも顎でつかわれてたよ」 「あの頃はそうだったわね…ハラスメントっていう言葉もなかったしね。まぁ今の社長になってからは、バカなカースト制度みたいなのも無くなって社内の雰囲気も変わったけど…でも、江島課長や瀬田君のことを聞くとまだその名残はあるみたいね…でも、お父さんも苦労したわよね…」  マスターは微苦笑した。    マスターは庶務や労務の仕事を効率化させようと、仕事をしながらコンピュータシステムを学べる学校に通い始めた。そしてその翌年にシステムの導入を稟議に上げた。起案書の不備を何度も指摘され差し戻しや却下を繰り返し、ようやく決裁が下りた。  導入後は、煩雑だった業務が効率化されたことで、仕事の能率が明らかに上がった。その功績を認められて同期の中で一番最初に、課長職に就くことになった。  ほとんどの同期仲間は昇進を祝ってくれたが、ただ営業部の同期からは何かにつけて妬まれ続けた。課長のお前の給料は俺たちが稼いでやってるんだから感謝しろ、と飲み会の席ではいつも絡まれる始末だった。   「何かを成し遂げるどころか何も出来ない、自分の無能さにも気付かない、ただただ、置かれている立場だけで自分は偉いと勘違いをしている奴らに、しょっちゅう気分を害されてね。定年まであと数年だからと、気にしない振りもしてたんだけど…そのうちね、バカな奴らだと軽蔑することさえも時間の無駄だと思い始めたんだよ」  穏やかなマスターも余程腹に据えかねることがあったのか、辛辣な言葉を並べた。そして、幸祐の目を見ながら、説くように話した。   「人生は限りがある。私はね、この先のことを考えると、無駄なことは止めようと思ったんだよ。そして行動に移した。それは今なんだって思ったんだ。良子さんは定年退職と自主退職だと退職金の額が違ってくるのよ、って怒ってたけど、それでも、私は我儘と解っていても自分の意志を貫き通したよ。良子さんやお金も大切だけど、このまま我慢をして無駄な時間とわかりながら目を瞑って平気な振りをしてその時をやり過ごす、そうしなければいけない時も確かにあるとは思うけど、でもね、私は今やらないと、この先の人生でずっと後悔してしまうんじゃないかって思ってね」  マスターは一息ついて水を口にした。   「私が勝手に思うんだけど…成宮君も砂田君のことを大切に思っていても、成宮君にとっては、それが今だったんじゃないかな…砂田君とこれからも一緒に人生を歩んでいきたいから、尚更高松への出向は、今しか出来ないことだ、と思ったんじゃないかな」  幸祐は静かに涙を流していた。  笪也を信用できなかったこと、愛されていたのにそのこともわからず、自分の思いばかりを笪也に押し付けて、笪也の本心を訊けなかった、いや訊こうともしなかった。笪也に愛想を尽かされても仕方がないと思った。 「お父さん…ちょっと」  良子は幸祐の涙を見て、マスターに言った。   「ああ、すまない…勝手な憶測で言ってしまったね…でもね、今だと思うことは、砂田君にもいえることなんだよ」  幸祐は涙を拭うと、はい、とマスターの目を見て応えた。 「それに、良子さんから聞いたけど、成宮君は砂田君と別れたなんて思ってないみたいだよ」 「そうよ…成宮君、出向する直前に総務部に来てね、これからも幸祐の相談相手になってやってくれませんかって、真剣な顔で言われちゃったわよ。大切に思ってるのよ、砂田君のこと」  それを聞いて幸祐は目を見開いた。そしてまた大粒の涙がこぼれ落ちた。   「ああ、なんかお腹すいちゃたわね…ねぇ砂田君、どう?ホットドッグ食べない?」  良子は、その場の雰囲気を変えようと明るい口調で笑顔で言った。 「…ホットドッグですか?」  幸祐は戸惑い気味に言うと、良子は、幸祐の返事を待たずに、ホットドッグ二つお願いね、とマスターに注文した。   「あっ…お父さんソーセージ残ってる?この時間だといつも無くなってるのよね…うっかりしてたわ」  すると、マスターは冷凍庫を開けながら良子を横目でチラッと見た。   「良子さんの夜食用に冷凍してるのがあるよ」 「あっ、そうよね…さすがマスター。たまにどうしても食べたくなるのよね。この人はある意味変態でね、ソーセージはマスターの手作りなのよ。喫茶店のマスターが店で出すホットドッグのソーセージを普通、手作りする?コーヒー豆にこだわるんだったら分かるけど。塩やスパイスやらにこだわって…まぁかなり美味しいのが出来てね、それ目当てにモーニングに来てくれるお客さんでいつも盛況なのよ」  マスターは調理をしながら、良子を見た。   「君は本当に何かしら文句を言わないと気が済まないみたいだね…素直にマスターは天才だと言ってくれればいいのに…ねぇ、砂田君もそう思うだろ?」    幸祐が笑い出すと、良子は肩をすくめた。そして幸祐の笑い顔を見て良子も笑顔になった。 「はい、お待たせ。トッキー特製のホットドッグだよ」     焼けたパンの香ばしい匂いと一緒に、マスターお手製のソーセージが挟まれたホットドッグが幸祐の目の前に出された。幸祐は笑顔で、いただきます、と言うと大きな口を開けてかぶりついた。ソーセージから旨みたっぷりの肉汁が口の中に溢れた。それは、幸祐の心に沁みる味だった。 「マスター、最高です」  幸祐はケチャップやマスタードを口の周りにつけながら満面の笑顔で言った。    マスターと良子は顔を見合わせて微笑んだ。

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