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第15話 もう一度(1)
笪也は駅から階段を下りて、高架線路沿いの道を歩いた。その先にある『権兵衛』に向かった。
時間は昼過ぎで、今なら、大将や女将さんと話しもできるだろうと思っていた。
高架化完成後にできた駐輪場や公園を横目に歩いていくと、以前ならこの辺りまで来ると、権兵衛ののれんが見えていたはずなのに、と笪也は首を傾げた。そして、店のすぐ傍まで来て、笪也は気付いた。昼営業が終わって夜のために準備中という感じでもなく、店自体が閉店しているのではないかと。
その時、後で声がした。
「笪ちゃん…笪ちゃんでしょ?」
笪也はゆっくり振り向いた。
「やっぱり、笪ちゃんだ」
幸祐だった。
黒のキャップを被りジーンズ素材のエプロン姿で笑顔を見せながら、そこに立っていた。
「…幸祐」
笪也は、あまりのことで次の言葉が出なかった。
「笪ちゃん、いつ帰ったの?」
「…あっ…ああ…今日だよ。さっき本社に寄って来たところだ」
幸祐は、そうなんだ、と言って、被っていたキャップを取った。
幸祐の、嬉しそうな顔がはっきりと見えたが、笪也はまだ、信じられなかった。
「笪ちゃん、驚いてる?」
「そりゃあ、もちろん…で、お前はどうしてここにいるんだ?この辺りで働いているのか?」
幸祐は大きく頷き、ここで、働いてるんだ、と笪也が今、通り過ぎた店を指差した。
その店は、狭い間口いっぱいにガラスケースを置いて、対面販売をするパン屋だった。
そして、幸祐は少し誇らしげに言った。
「あのね、この店、俺の店なんだ」
「えっ…幸祐が経営してるのか?」
「そう、俺がオーナーで店長」
笪也は驚きでまた言葉を失った。
「ねぇ、笪ちゃん。少し時間ある?」
ああ、と、笪也は頷いた。すると幸祐は自分の店の奥の誰かに向かって声を張った。
「トオル!…ちょっと店頼むね」
幸祐は、道を渡って高架下の公園の方に向かった。笪也もその後ろを歩いていきながら、店を振り返ると、そこに幸祐よりも若く、スラッと背の高い男が、いかにも心配そうな表情で、こちらを見ていた。
笪也の心はざわついた。
ひょっとして幸祐の今の男なのか、と。
公園には誰もいなかった。幸祐は、ブランコの柵に腰をかけた。笪也も少し間を空けて腰かけた。
そして、幸祐が静かに話し始めた。
「権兵衛の女将さんね…去年、病気で亡くなったんだ。で、大将は女将さんの看病で、亡くなる前に店を閉めたんだよ」
その時、幸祐の携帯が鳴った。幸祐は、ごめん、と言って、その場を離れた。
笪也の耳に、わかってるから、という幸祐の声が聞こえた。
「ごめんね…店からだった」
「いや、戻らなくていいのか?」
「うん。大丈夫だよ」
幸祐は穏やかに言った。
「女将さん、元気だったのにな」
笪也は女将さんの元気だった頃の姿を思い出し、切なくなった。
「笪ちゃん、権兵衛に行こうと思ってたんだね」
「…ああ。どうしてるかな、と思ってな」
幸祐は足元の小石を軽く蹴った。笪也はポケットから携帯を出して、当てもないのに画面を見た。
互いに訊きたいこと、言いたいことがあっても、どう切り出せばいいのか、迷い躊躇い、そして黙り込んでしまった。
そして、笪也が口を開いた。
「幸祐…あの時、叩いてしまって、悪かったな…痛かっただろ…」
「えっ…?…あぁ…どうかな…もう、覚えてないよ」
幸祐は笪也の顔をじっと見た。望んでいる答えが笪也の口から聞けるか不安な表情をして言った。
「笪ちゃん…どうして、権兵衛に行こうと思ったの?」
その時、また幸祐の携帯が鳴った。今度は画面を見ると、出ずにすぐに切った。
「出なくていいのか?」
「いいんだ…それより、ねぇ、どうして来たの?権兵衛に…ねぇ、笪ちゃん」
幸祐は、自分と会う手立てを知るために、と言ってほしかった。
「本社を出たら、なんとなく来てしまったんだよ。長年の習慣ってやつかな」
幸祐は俯いた。
「そっか…でも、駅前も変わったでしょ」
幸祐は無理に笑顔を作った。
「そうだな…商店街が跡形も無くなっていた」
「複合ビルが建つみたいだよ…まだ数年先だけど」
また、沈黙が訪れた。
笪也は思っていた。自分の仕事への衝動を抑えられず、幸祐を納得させる努力もせずに行ってしまった自分が、あのトオルと呼んだ男と一緒に、パン屋を営んで暮らしている幸祐の幸せの中に入り込んでいいわけがないと。このまま、当たり障りなく去るのが、幸祐へのせめてもの償いだと感じていた。
「なぁ…忙しそうだから、俺、そろそろ…」
笪也は、そう言って立ち上がろうとした。
「………!」
幸祐は驚いて笪也を見た。
「偶然にも、元気そうな幸祐と逢うことができてよかったよ」
笪也は、なんの感情も込めずにさらりと言った。
「…また…俺を置いていくんだ…」
幸祐は呟くように言った。
その声を聞いて、笪也は立ち上がったまま動けなかった。
「ねぇ!笪ちゃん…また…また、俺をおいていくの」
幸祐は声を強くした。
「でも、あの時と今は違うだろ」
笪也は、一時の感情で幸祐の今の幸せを壊す資格なんて自分にはないんだ、と拳を握った。
「一緒だよ。俺はあの時泣きながら、行かないでって、何度も何度も言ったのに…また今も同じことするの?…俺、今も心の中で、行かないでって、言ってるの、わからないの?」
「幸祐…でも…」
ドンッ。
笪也は後ろによろめくくらいの強さで、幸祐に胸元を叩かれた。
「俺…ここにいたら、いつか笪ちゃんと会えると思って…そう思って頑張ってたんだよ……やっと、やっと会えたのに…それなのに、笪ちゃんは、会えてよかったよ、って…それだけなの?……また行ってしまうんなら、なんで、来たんだよっ!…また、笪ちゃんと別れるなんて、俺は…俺はもう耐えられないよっ」
幸祐は必死に涙を堪えながら笪也を睨んでいた。そうでもしないと、心が折れてしまうことがわかっていた。
「幸祐…」
「…もういいっ」
そう言って、走り去ろうとした幸祐の腕を、笪也は思うよりも早く力強く掴んだ。幸祐は咄嗟にその腕を振り払おうとしたが、笪也の力には敵わなかった。
「笪ちゃん、もう離してよっ」
笪也は、手を振り解こうとしている幸祐の向こう、駐輪場のフェンス越しに、こちらを見ているトオルの姿を見つけた。トオルのその顔は怒りとも悲しみともとれる表情に見えた。
自分の踏ん切りのつかない態度に怒っている幸祐のこの腕を、今離してしまうと、幸祐はトオルのもとにいく。そして、もう二度と幸祐には会えない。だが離すべきなのはわかっている。わかっていても、笪也はできなかった。
トオルの見ている前で、自分の方に引き寄せて抵抗する幸祐を力尽くで抱きしめた。幸祐は笪也の腕の中で、泣きながら暴れた。それでも笪也は腕の力を緩めなかった。
「幸祐…ごめん」
幸祐は抱きしめられたまま笪也の背中を叩き続けた。あの時自分を置いていき、そして今また置いていかれることで繰り返される失望から、なんとか逃れようとしているみたいだった。
「笪ちゃんのバカ。バカ。バカ…死んじまえ」
泣き叫び、やがて、泣きじゃくり、そして力尽きた幸祐は、笪也に抱きしめられたまま、静かに泣いていた。
「幸祐ごめん…悪かった…本当にごめん」
笪也は心の中でトオルにも手を合わせた。幸祐は絶対に渡せないんだ、と。
しばらくして、駐輪場のフェンスの向こう側を見ると、そこにはもう誰もいなかった。笪也は、なお一層幸祐を抱きしめる腕に力を込めた。
そして、笪ちゃんのバカ、と少し甘えるように小さな声で幸祐は言った。
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