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第15話 もう一度(5)
残暑も少し落ち着いた秋半ば、オープンのその日は、朝から抜けるような青空だった。
オープン準備を粗方済ませた頃、大将が言った。
「コウ君。いよいよだな。開店本当におめでとう」
「大将、ありがとうございます。ここまでこれたのも大将のおかげです。本当に感謝してます」
「何言ってんだ。コウ君が頑張ったからに決まってるだろうが」
幸祐は、遠慮がちに、へへっ、と笑った。
オープンの日の未明。幸祐が開店準備を始めたところに、大将がタクシーで駆けつけてくれた。期待よりもさらに大きな不安に押し潰されそうになっていた幸祐は、大将の顔を見るや否や泣き出しそうになった。大将は、なに情けねぇ顔してんだ、大丈夫だ、と背中をバシッと叩いてくれた。大将は、今日は俺にも手伝わせてくれねぇか、と持っていた紙袋から権兵衛時代に着用していた前掛けを出して幸祐に見せた。幸祐は大きな声で、お願いします、と自分にも気合いを入れるように言うと、大将も前掛けの腰紐をぎゅっと縛って気合いを入れた。
そして、幸祐は大将にお願いをした。一番最初のハムカツは大将に揚げてほしいと。
「いいのかよ…俺がしても」
「大将に是非お願いしたいです。俺がこれから大将の味を引き継いでいけるように、大将の力をください」
大将は穏やかな笑顔で、コウ君、ありがとな、と言った。定食屋権兵衛の大将は、幸祐の店の開店で、料理人としての花道を飾ることになった。
ハムカツサンド店『T&K』はオープン前から店の前に客が並んでいた。そして、幸祐の、いらっしゃいませ、の声でオープンすると、ガラスケースに並べたハムカツサンドがどんどん売れていった。大将は、また気合いを入れてフライヤーの前に立った。
昼過ぎになると、客足がようやく落ち着き始めた。すると店の前に一台の車が止まった。運転席から武史が出てきた。武史は幸祐の姿を見て手を振った。幸祐は、笑顔で車に近寄った。
「コウ君。オープンおめでとう」
「ありがとうございます、武史さん」
武史は店の中を覗くようにして言った。
「なぁ…親父、邪魔になってないか?…昨夜から、明日は手伝いに行くんだって、ソワソワしてさ…それにもう一人、絶対に明日ハムカツサンドを買いに行くんだって言い張ってるのがいてね」
武史は苦笑しながら、後部座席の窓を開けた。そこには、マスク姿の女将と武史の妻が乗っていた。
「女将さん!」
幸祐は、目を見開いて驚いた。
女将はゆっくりとマスクを外した。鼻孔から耳へと透明なチューブが掛けられていた。女将は既に日常でも酸素吸入が必要な状態にまでなっていた。
「…コウ君。頑張ったわね」
女将は掠れた声で、幸祐を優しく労った。
「はい…女将さん。大将や女将さんのおかげで、お店をもつことができました」
「もう、何言ってるの…コウ君が、頑張ったのよ」
幸祐は、涙を堪えながら笑顔を見せた。
「コウ君…ハムカツサンドを十個、包んでもらおうかしら」
「はいっ!ありがとうございます。直ぐにお持ちします」
幸祐は店に戻ると、ハムカツサンド十個を袋に入れて、また車の傍に行くと、中で待っている女将へ窓越しに手渡した。
「ありがとうね…はい、お代金」
と言って、女将は一万円札を幸祐に渡した。受け取った幸祐は、すぐに、お釣り持ってきますね、と言って、また店に戻ろうとしたら、武史が、待って、と声を掛けた。
「コウ君…聞いてやってくれないか」
と、後部座席を指差した。
女将は少し恥ずかしそうな顔をして、幸祐を手招いた
「釣りはいらねぇ…取っときな……ウフフ… 一度ね、こういうの…やってみたかったのよ」
幸祐は、一万円札を握って、大きな声で、ありがとうございます、と深々と頭を下げた。
それから、秋が深まり冬も間近になった頃、女将は家族に見守られながら、静かに息を引き取った。とても安らかな顔だった、と幸祐は武史から聞いた。
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