81 / 96
第15話 もう一度(6)
「これが、その時の一万円札だよ」
幸祐は棚から写真立てを下ろして、作業台の上に置いた。
「俺ね、毎朝、女将さんに、大将の味をしっかり守りますって、誓ってるんだ…それとね…いつか、笪ちゃんがここに来てくれますように、ってお願いしてたんだよ…」
幸祐は、手の甲で涙を拭った。
「…女将さん。ありがとうございます。幸祐の願いを聞き届けてくれて」
笪也が、写真を見ながらそう言うと、幸祐は堪え切れなくなり、笪ちゃん、と笪也に抱きついた。
「笪ちゃん…お帰りなさい…本当に、お帰りなさい」
「ああ。ただいま、幸祐」
笪也は、抱きつく幸祐を、優しく愛おしく腕の中に包み込んだ。幸祐との抱擁は、二年前の甘く濃密な時間を笪也に思い出させた。またあの時のような関係に戻れるんだと心が踊った。そして笪也は、その前にしておきたいことがあった。
「なぁ、幸祐…もし、店の都合がつくようなら、明日、高松フーズに一緒に行かないか?」
幸祐は驚いて、顔を上げた。
「高松フーズに?」
「そう。幸祐の頑張りをこうやって見させてもらった。今度は俺が頑張ってきた証しを、一緒に見て欲しいんだ」
「笪ちゃん…帰ってきたんでしょ?まだ、高松フーズに行かなきゃいけないの?」
幸祐の顔が少し不安そうになった。
「帰ってきたよ、ちゃんとな。でも、まだ向こうのアパートの引き上げが完全に済んでいないんだよ…だから、全て終わる前に、お前に見て欲しいんだよ…駄目か?」
「ううん…行く。絶対に行くよ」
笪也は幸祐の両肩を掴んだ。
「驚くなよ。俺は凄いことをしたんだからな」
幸祐は、うん、うん、と得意顔の笪也を見ながら頷いた。涙が乾くと、また笪也との幸せに満ちた日がやって来そうな、そんな予感が胸の中を占めていた。
「そうだ、笪ちゃん。この店の名前を『T&K』にしたこと話していい?」
「トオル君と幸祐の名前からじゃないのか?」
幸祐は、ニッと笑った。
「笪ちゃんは、大将の名前知ってる?」
「…大将か…女将さんは美智子さんだったけど、大将は知らないな…」
「店名を考えた時に、権兵衛の一文字をもらって『権太』にしたかったんだよ。大将にそのことを話したらね、もっとハイカラな名前にしろって言われてさ…大将、哲次郎さんっていうんだ…それで哲次郎さんのTと俺のKで『T&K』にしたんだ。でもね、このことは大将には内緒なんだ」
幸祐はイタズラっぽく笑った。笪也も、内緒の方がいいな、と一緒に笑った。
笪也は、明日の高松フーズに行く電車の時間を調べて、待ち合わせの時間と場所を決めた。
今晩は大学時代の親友の河野の家に泊まることも伝えた。幸祐は、河野さんの家に行くなら荷物になるけど持ってってよ、とハムカツサンドを袋に入れて、笪也に渡した。
「いいのか?こんなにも」
「うん…河野さんにも宣伝してきてよ『T&K』のこと」
「了解…じゃあ、明日、寝坊すんなよ」
「もう、笪ちゃん。俺はパン屋だよ。毎朝、何時に起きてると思ってんの?」
笪也は、そうだった、と笑いながら肩をすくめた。
幸祐は、駅に向かって歩いていく笪也の後姿が見えなくなるまで、店の前でずっと見送った。
そして、心の中で、女将さんありがとう、と何度も呟いた。
翌朝。
待ち合わせの駅に先に来たのは、幸祐だった。そこに十分遅れで、笪也が荒い息でやってきた。
「おはよう…ごめん、待たせた」
「おはよう、笪ちゃん」
幸祐は笪也の姿を見るなり、クスクスと笑い出した。笪也は、幸祐が笑った理由はなんとなくわかっていたが、敢えて眉をひそめた。
「なに?どうかしたか」
「だって…笪ちゃん。寝癖はついてるし、顔は浮腫んでるし…それに、ちょっとお酒臭いよ」
「あぁ…悪い…昨夜飲み過ぎた」
笪也は、手櫛で髪を整えて、頬をパンパンと叩いた。
昨日、幸祐と別れた後、笪也は幸祐とのことを、早く河野に話したくてウズウズしていた。
河野の家の最寄り駅で待っていると、片手を上げてタツ、おかえり、と河野がやって来た。
「なぁ、お前さ……遠目から見てもわかるくらい、にやついた顔してるぞ…さては、幸祐君といいことがあったんだな?」
笪也は、答える代わりに、河野の背中に自分の肩をぶつけた。
「はいはい…じゃあ、のろけ話しをじっくりと聞いてやろうじゃないの」
駅前のリカーショップで、帰還祝いだ、と言って河野は高級ウイスキーを買った。
河野の家に着くと、それからは笪也の幸祐話しが延々と続いた。ハムカツサンドを酒のあてにしながら、幸祐がパン屋をしていたこと、弟を新しい男だと間違えそうになったこと、幸祐を抱きしめていたら警官に注意されたこと、ぐるぐると話しは回り続け、どの話しも三回以上はしていた。
河野は、ずっと笑顔で話しを聞いていたが、明日、幸祐と朝早い電車に乗って高松フーズに行くと聞いていたこともあって、呂律が怪しくなってきた笪也に、そろそろ布団で寝た方がいいと言ってグラスを取り上げた。笪也も、わかってるって、と言いながら、二人とも座卓の傍で寝入ってしまった。結局、早朝、河野に叩き起こされて、笪也は大慌てで、歯磨きと洗顔と髭剃りを済ませて、河野の家を飛び出てきたのだった。
特急列車に乗ると、幸祐はすぐに、笪ちゃんおやすみなさい、と優しく声を掛けた。笪也は、少し照れた顔をして、悪いな、と言って目を閉じた。
ともだちにシェアしよう!

