84 / 96
第16話 くちづけ(1)
翌日。
日も暮れかかった頃、ようやく幸祐が待っている最寄駅に着いた。一昨日、同じ場所であっても、その時とまったく違った気持ちでここにいることを実感した。高架線路沿いの道を歩いた先に、愛しい恋人がいると思うと、笪也は無意識のうちに速足になっていた。
近づいていくと、シャッターが半分下りた店の前で幸祐が手を振っているのが見えた。そして、その横にトオルもいた。
「笪ちゃん、お帰りなさい」
満面の笑顔で幸祐は、笪也を出迎えた。笪也は一旦気持ちを落ち着かせて、トオルに会釈した。
「幸祐、ただいま……それと…初めまして、成宮笪也です」
「初めまして、弟の砂田亨です。オレンジジュースの成宮さんでしょ…知ってるよ」
亨は親しげに挨拶をした。あの時の印象とかなり違っていることに笪也は驚きを隠せなかった。亨はクスッと笑った。
「一昨日は、仏頂面してたでしょ?俺…急いでんのに、兄貴は戻って来ないし、おまけに携帯は出ないし、しょうがないから、シャッター閉めて出ていったんだけど…で、今朝、また一緒に住むことになったって…まぁ、嬉しそうな声で電話してきてさ…バイト前にちょこっと挨拶しようと寄ったってわけ」
「もう、普通に挨拶すればいいんだよ」
幸祐は、亨を睨んだ。亨はそんな幸祐にまったく気にもせず続けた。少し真顔になった。
「成宮さん…俺はいい加減な性格だけど、兄貴は真面目で、人の心配ばっかりして…でも本当、いい奴だから…兄貴のこと、よろしく」
「こちらこそ、よろしく。亨君って呼んでもいいのかな」
「もちろん。あっ、そうだ…今度飲みに連れてってよ。兄貴のおもしろ話いっぱい聞かせてあげるから…何で、俺がオレンジジュースの話し知ってるかとかね」
幸祐は、バイト遅れるよ、と話しに割って入った。亨は、はいはい、と肩をすくめた。笪也に、じゃあ、またね、とにこやかに店を後にした。
「ごめん…なんか急で」
幸祐は、やれやれといった感じで、シャッターを開けて、笪也を店に入れた。
「ううん…俺も挨拶できてよかったよ。幸祐とは真逆の性格みたいだけど、兄貴思いだな」
「猫かぶってんだよ」
「お前にしては、手厳しいな」
顔を見合わせて笑った。幸祐は、笪也の手荷物を半分持つと、じゃ、二階へどうぞ、と言って、先に階段を上がっていった。
以前なら、目を合わせるように、唇も合わせていたのに、と二人っきりになっても階段を先に上がっていった幸祐の後ろ姿を見ながら、笪也は少しガッカリした。
店の二階は、階段を上がって左側に、畳でいうと八畳くらいの細長い居間と床続きで台所があり、右側に風呂や洗面台やトイレがあった。そして、その奥にガラスの格子戸で仕切られた部屋があった。
幸祐は、笪也に簡単に部屋の中を案内した。そして、居間にある押し入れの左半分に、昼前に届いた笪也の荷物を入れていることを伝えた。
「押し入れを半分にして、左側が笪ちゃんで、右側が俺にしたんだけど…いいかな?」
「もちろん。重かっただろ?ありがとう。後で整理するよ」
それから、幸祐は、奥の部屋に笪也を連れて、もじもじしながら格子戸を開けた。
「この部屋なんだけど…寝室にしようかな…って思ってて…」
四畳くらいの和室に、既に布団が敷いてあった。
「うん…奥まった部屋だから、ゆっくりと寝られそうだな…色々、準備ありがとな、幸祐」
布団には触れずにいた笪也の言葉を聞くと、幸祐はホッとした様子で、また先に居間に戻った。
亨が帰った後の幸祐を、笪也はどこかよそよそしく感じた。二人っきりになっても、キスどころかまだどこにも触れていない。荷物を渡した時も、指すら触れていなかった。自分の欲求がそう思わせているだけなのか、笪也は、小さく溜め息を吐いた。
居間に戻ると、幸祐は、お腹空いたでしょ?と、言いながら座卓を布巾で拭き始めた。
「ああ。ペコペコだよ」
「今晩は、笪ちゃんの好きなアレを作ったから…手を洗ってきて」
笪也は上着を脱いで、洗面台に行った。
座卓の上に煮込みハンバーグが置かれていた。笪也は、あの時、冷蔵庫のタッパーに入っていたのを思い出し、切なくなった。あの時と比べると、少しくらいよそよそしく感じても、今は、目の前に幸祐がいて本当に幸せなんだ、と思い直した。
食事が済むと、幸祐は笪也に風呂を勧めた。そして、疲れているから、今日は早く寝たら、とも言った。笪也は、笑顔を作って、そうするよ、と言うと押し入れのダンボール箱から着替えを出して風呂場へ行った。
二年間の隔たりが、そうさせているのか、笪也は、幸祐が傍にいて幸せなのに、何か暗鬱なものをどうしても拭いきれないでいた。
風呂から上がると、幸祐はビールを出してくれた。
「ごめん…ご飯の時に出せばよかったね…俺もお風呂に入ってくるから、それ飲んだら、先に寝ててね」
「サンキュー…」
笪也は、ビールを飲み終え、着替えの衣類を出したダンボール箱をまた押し入れに戻すと、奥の寝室にいった。
幸祐は自分の横で寝るのは違いないが、今晩はこのまま先に寝た方がいいのか、笪也は思い悩んだ。幸祐は、久しぶりのセックスに不安を感じているのか、それとも他に理由があるのか。
笪也は、拒まれたらその時はその時だと、幸祐が寝室に来るのを待った。
しばらくすると居間の明かりを消して、幸祐がそっと寝室に入ってきた。
「なぁ…幸祐。先になんか寝られないよ」
「あっ…起きてたの、笪ちゃん…」
笪也は、おいで、と言って掛け布団を捲り、自分の布団の中に入るよう幸祐を誘った。
幸祐は俯きながら、素直に笪也の布団の中に入った。笪也は幸祐に覆い被さるようにして抱きしめた。幸祐も笪也の背中に手を回した。笪也は、やっぱり、思い過ごしだったんだと、ようやく触れ合えた喜びを感じながら、幸祐の頬を優しく撫でた。そして、キスをしようとした時、幸祐はためらいながら言った。
「ねぇ笪ちゃん…今日は…キスだけでもいいかな」
「ああ、いいよ。こうしてお前をこの腕で抱きしめることができたんだ。俺はそれだけで十分幸せだ」
笪也は、幸祐を見つめながら、優しく言った。
「笪ちゃん…あの、言わなきゃいけないことがあるんだけど…」
笪也の顔が、少し険しくなった。
「あのさ…その…俺、だめなんだよ…」
「何がダメなんだ?」
笪也は、語気を強めた。
「俺さ…たたないんだ」
「えっ?…立たないって?」
「だから、勃起しないんだよ」
「………」
そういうことか、と、笪也の暗鬱は安堵と心配に変わった。よそよそしく感じた幸祐の態度は、実は不安でいっぱいの現れだったんだとわかった。
いつからなのかは、わからないが、おそらく、心因性の機能不全なのだろうと、素人ながらに推測した。大丈夫だとか心配しないでいいなど軽々に言えることではなく、笪也はただ抱きしめることしかできなかった。そして、幸祐はゆっくり、話し始めた。
「俺ね、笪ちゃんと別れて、おばあちゃんの所にいってさ…でも、夜になると、笪ちゃんに会いたいって…笪ちゃんに愛してほしいって…毎晩思って…で、その…自分でしようとして触ったんだよ…でも何も感じなかった…握って手を動かしてもさ、どうもならなくて…次の日も試したけど、同じだった。で、次の日に触った時にさ、額田さんの言葉を思い出したんだよ『うす汚いホモ野郎』って言われたのを…」
幸祐は少し迷ったが、また話しを続けた。
「でね、瀬田にも言われたんだ…成宮さんがお前を好きになるはずがないって。お前は成宮さんの性処理の道具にすぎないって、ただの穢れた道具なんだって…
毎晩なんとか勃たたせようとしてた自分を一体どう思ったらいいのかわからなくなって…それからは触ってないんだ…でも、やっぱり心配だったし、オンラインで泌尿器科の先生に相談したこともあったんだ。怖がらないでちゃんとしたんだよ俺…」
笪也は優しく頷いた。
「先生はね、薬で一時的に勃たせることはできるけど、根本的な治療ではないから、もう少し様子をみるか、積極的に治療を希望するなら多面的に診ていきますよって言ってくれて、それっきりなんだ…だから…だからね、今も、だめだと…思う」
最後、幸祐は涙声になった。そして、啜り泣き始めた。
笪也は何も言わずに、幸祐を抱きしめた。
あの時、幸祐が自分を道具と蔑んだのは、瀬田の言葉のせいだとわかった。そして、何故もっと幸祐の話しを聞いてやれなかったのか、今更ながら狭量なあの時の自分に憤りを感じた。
笪也は、幸祐の涙を指で拭ってやった。
「幸祐、お前はうす汚れても穢れてもいない。俺にとってお前は大切な、本当に大切な、世界に一つだけの宝物なんだ。誰かにこんな気持ちになったのは、お前が初めてだ。お前の体がどうであっても、俺はお前だけだ。俺はこうしてお前を抱きしめてやることしかできないけど…」
笪也は幸祐の顔を見た。真剣な眼差しで問いかけた。
「なぁ…幸祐、伝わってるか?お前への俺の愛が」
幸祐は泣きじゃくりながら、何度も頷いた。
「ゆっくり、やっていこう…な?…俺たちは、また、これから始まるんだよ」
幸祐は、笪ちゃん、と言って笪也の胸に顔を埋めた。
笪也は幸祐の背中をゆっくりと撫でた。華奢な背中が一段と、か弱く感じた。
幸祐はしばらく泣いていたが、やがて落ち着くと、笪也の胸元に埋めた顔を、クイクイと擦り寄せた。
「笪ちゃんの温もり…安心する…また抱きしめてもらえた」
幸祐は顔を上げた。長い睫毛はまだ少し涙で濡れていた。
「これからは、ずっと、ずっとお前を抱きしめてやるからな」
「うん…うん、笪ちゃん」
笪也はそっと幸祐に唇を重ねた。
幸祐は、笪ちゃん、と言って、また涙を流した。
「お前は…俺と会ってからずっと泣いてばっかりだな」
「だって…だって」
「嬉し涙だよな、それは」
幸祐はコクリと頷いた。
「幸せの涙だよ」
「じゃあ、もっと幸せにしてやるよ」
笪也は指で幸祐の涙を拭うと、その手で頬を包み込んだ。そして唇を押し付けるようにしてキスをした。幸祐は笪也の首に手を回して顎を上げると、唇を開いて笪也の舌を誘った。
何度も唇に吸い付き、何度も舌を絡ませ合い、互いの吐息を共有し、甘く激しいキスは、永遠に続くかのようだった。そして、幸祐はまた泣いていた。
二年弱振りの夜は、甘く静かに更けていった。
ともだちにシェアしよう!

