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第16話 くちづけ(5)

 森川がウェルネスの執務室に戻ると、笪也は、瀬田はどうだったのかと探るような目で、森川を迎えた。 「すいません、遅くなりました」 「いや…いいんだ」  森川は、会議テーブルの椅子に座っている笪也の横に腰を下ろした。   「あの…今日、仕事終わりに、店に行ってもいいですか?…瀬田が、砂田に謝りたいって言ってて」 「幸祐に訊いてみるが…アイツは何て言うかはわからないぞ」 「ええ。それが砂田の答えなら、瀬田にそう伝えます。瀬田がしたことは、許してもらえないかもしれませんが、けど、砂田が辞めてから、自分がしたことをずっと後悔して、反省してたみたいなんです。もう、ビルの前広場で大泣きですよ…アイツにとっては成宮さんが全てだったんです…要は失恋した…ってことなんですかね…」 「失恋ねぇ…」  笪也は、幸祐を愛していると瀬田に言ったのは、性処理と思われたことが腹立たしかったからなのだが、瀬田の想いがそこまでとは、思いもよらなかった。 「…にしても、俺は、お前に助けてもらってばかりだな…あの額田さんの時といい」 「俺は、成宮さんには、借りがありますから」    森川は、少し照れ臭そうに言った。 「…借りだって?…俺はお前に何も貸してないぞ」 「成宮さんは…たぶん気付いてないでしょうね」  笪也は、森川の意味深な言い様に眉間に皺を寄せた。    森川がインターンシップでディ・ジャパンで数ヶ月就業体験をした時、気骨のある奴だと、営業部長だった唐田の目に止まった。  森川は数社内定をもらっていたが、ディ・ジャパンに入社し、営業部で働くことを志望した。  唐田は、本人の希望通りに営業部に引き入れたが、入社後、まだまだ学生気分が抜けきらない森川は、礼儀を欠いた態度や、おまけに柔道で鍛えたデカい図体も併せて、営業部内のチームリーダーたちは自分のチームに入れるのは、トラブルを引き起こしそうだと、尻込みした。  当時、まだリーダーではない笪也は、自分が面倒をみるからチームに入れてみては、と申し出た。それは、パートナーとして一緒に暮らしていた唐田の力になりたかったからだった。  信望のある笪也が、そう言うのであれば仕方がないというわけで、森川は笪也がいるチームに配属された。  入社後、数ヶ月経った頃、森川も社会人らしく礼儀も身につけ、チーム内でも戦力になりつつあった。  そんなある日、酒の席でチームリーダーから、森川がチームに入るまでの経緯を聞かされた。もし、笪也が声を上げなければ、営業部どころか、一旦ケチがついた人間は、どの部署も受け入れてくれなかったのではないか、と森川は言葉を失った。それと同時に笪也に深謝した。   「今まで、照れ臭くて話せなかったんですけど、俺は成宮さんに足を向けて寝られないんですよ」  森川は頭を掻きながら言った。  笪也は、ただ、唐田の力になりたいと思ってのことだったのだが、今となっては、ほろ苦い追憶だった。 「じゃあ、もう十分だよ。貸し借りはなしだ」 「いや、まだ八割くらいですよ」 「えぇ?まだ二割も残っているのか」 「…残りの二割は…その…永遠の二割にしてもらってもいいですか?」  森川は、更に照れ臭そうに言った。 「何、カッコつけてんだよ、お前は」  笪也は、笑いながら、携帯で幸祐に連絡をした。  笪也から連絡を受けた幸祐は、驚き、戸惑ったが、笪也が一緒にいてくれるなら瀬田の話しを聞いてもいいと返事をした。    出勤前に心に誓った通り、定時で帰宅できた笪也は、幸祐にただいまのキスをした。幸祐は笪也に抱きつくと、笪ちゃんがいてくれるだけでいいんだ、と小さな声で言った。  しばらくすると、森川から、最寄駅に着いたと連絡があった。幸祐は店のシャッターを開けると、こちらに向かって歩いてくる二人を見つけた。 「砂田。久し振りだな。人気のパン屋さんだって成宮さんに聞いて驚いたよ。凄いな…砂田にそんな才能があったなんて」  森川は二年前と少しも変わってないと、幸祐は感じた。一方、瀬田は、あの時、幸祐を口汚くて罵った人物とは思えないくらい、森川の後に隠れるように縮こまって立っていた。 「狭い店なんだけど、中へどうぞ」  幸祐は二人を店の中に入れた。作業スペースには笪也がいた。笪也はそっと幸祐の傍に寄った。 「砂田…あの時、酷い言葉を並べた上に、会社を辞めろなんて言って、本当に悪かったと思ってます。反省してます。ごめんなさい」  瀬田は深々と頭を下げた。  幸祐は思った。瀬田に憎まれても、あんなに見下され蔑まれた言葉を言われてなかったとしたら、今、どうなっていただろうかと。  笪也が急に挨拶で高松に行くことを知って、愚痴は言ってもあんなに取り乱すことはなかったかもしれない。ディ・ジャパンを辞めていなかったかもしれない。そして『T&K』を開店していなかったかもしれない。人生は何がきっかけで転落し、また好転するか分からない。悪いことも良いことも、自分自身が招いたことと捉えようと、考えていた。  ずっと黙っている幸祐に、森川は堪らず話した。   「なぁ、砂田。俺が間に入って言うのは筋違いと重々わかっている。瀬田も本当に反省しているんだ。砂田に言った言葉は、決して許されることではないと思う。許してやってほしいとも俺は言わない。ただ、コイツも反省していることだけは、わかってやってほしい」    幸祐は、瀬田へゆっくりと視線を移した。 「瀬田…俺ね、あの時の瀬田の言葉で本当に傷ついたよ。どうして瀬田にあんなことを言われなきゃいけないのか、わからなかった。自分で自分がわからなくなったよ…でもね、俺は色々な人に助けられて、笪ちゃんと、またこうして一緒になれた。俺は今は幸せだし…だから、瀬田に言われたことはもう忘れるよ」 「…砂田。簡単に許してもらえると思ってないよ…でも、話しを聞いてくれてありがとう」  瀬田は森川を見た。森川も、うん、と優しく頷いた。 「じゃあ…さ」  幸祐はほんの少し口角を上げて、また瀬田を見た。 「俺はもう忘れるけど、瀬田はこれを覚えておいて」  幸祐はそう言うと、傍にいる笪也の方を向いて、笪也の首に手を回した。笪ちゃん、と甘い声で名前を口にすると、笪也にキスをした。  瀬田と森川は、えっ、と驚いて、顔を見合わせた。  幸祐は、瀬田のことはもう許したも同然で、ただ笪也との仲を、ちょっぴり見せつけたかった。だけなのだが、キスをされた笪也は、すぐに唇を離そうとした幸祐の後ろ首を掴んで、それを阻んだ。笪也は幸祐の唇に吸い付き、吐息と絡めた舌の音まで聞こえてきそうなくらい深く熱いキスを続けた。    ようやく唇が離れると、幸祐は、ニヤついた顔の笪也の胸を軽く叩いた。   「…もう笪ちゃん」 「覚えておいてほしいなら、これくらいはしないとな」  笪也は、幸祐の頬を軽く撫でて、瀬田をチラッと見た。   「覚えておきます…はい」  瀬田は背中を丸める様にして、ボソッと言った。    幸祐の店を後にした二人は、駅へと向かった。 「森川さん…俺、はっきりとわかりました。成宮さんの相手は砂田しかいませんよね。俺には絶対無理です…」  瀬田は、気持ちに整理をつけようしていた。 「仕事上ではこれからも、これまで以上に尊敬します。でも、変な憧れや、生意気に肩を並べて仕事がしたいなんて、そんなこと思っても何にもならないんだって、よくわかりました」 「そうか…お前も成長したか…にしても、さっきのアレはお前を揶揄う冗談だとしても、やり過ぎだよな…マジで」        森川はそう言って笑うと、瀬田の髪をクシャッとした。 「なぁ、瀬田…大変な人に心惹かれた者同士…今から飲みに行くとするか…」  頷いた瀬田の顔にも、ようやく笑顔が見られた。   「森川さん、今晩は何でも奢りますよ」 「おう…そのつもりだ」  森川はそう言って、瀬田の首に太い腕を回した。

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