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第17話 遂げる(1)

 ウェルネス事業部発足から二年が過ぎた。  当初は、世代別の野菜ジュースをオンラインショップでの販売という、スロースタートだったが、野菜嫌いの子供を育てる人の救世主になりたいとアピールした三枝が打ち出した、子供向けの野菜ゼリーが爆発的なヒット商品になった。子供たちに人気のキャラクターとコラボしたことや、どうせ食べさせるのなら少しでも体に良いものを、という親心をくすぐる戦略がみごとに当たった。  その他にも、世代別の野菜ジュースの中でも高齢者用のジュースを、森川の先導で、誤嚥予防の為に強めのトロミを付けてリニューアルをした。そしてそのボトルにも工夫を凝らした。飲み口を広くし、ボトル側面には大きめの目盛りを表示し、ボトルキャップは弱い力でも簡単に開けることができるように、容器メーカーと共同開発した。そのボトルはその年のユニバーサルデザイン賞を受賞したのだった。  森川と三枝はそれぞれのチームを作り、リーダーとなった。  笪也と森川を入れて総勢九人だったウェルネス事業部は、今や二十数人のメンバーを抱える部署となった。当初用意された執務室では、メンバーが増えてくると、まともにミーティングすらできない状況になり、役員室があるフロアーから社食や休憩室がある階へ引っ越しをした。休憩室の横にある社員の為のリラクゼーションルームを改装し、そこを執務室にした。  新しいその執務室が社食と休憩室の隣りということで、本社の社員のみならず、全国の支店から出張に来ている社員も、ウェルネスのメンバーに気軽に声を掛け、ついでにちょっとしたアイデアも授けてくれていた。ウェルネス事業部は、ディ・ジャパンにとって将来への期待や希望を象徴する存在になっていた。    幸祐のハムカツサンドの店『T&K』は、開店から順調に二年と半年が過ぎた。駅近で通勤通学の通り道の立地だったことや、対面販売で素早く購入ができる手軽さが、購入頻度を上げていた。  定番のハムカツサンドの他に、権兵衛の副菜で人気だったきんぴら牛蒡と、幸祐考案のピリ辛人参ラペを半々にサンドした、根菜サンドも人気があった。惣菜系のパンだけではなく、店唯一の甘いパン、生姜風味のキャラメルクリームサンドもまぁまぁの売れ行きだった。  開店一周年イベントを実施した時は、駅構内に置いてあるタウン情報誌にその様子が掲載された。   「あっ…今日は根菜サンドまだあるじゃない」  店近くの行きつけのヘアサロンのスタイリストがお昼を買いにやって来た。 「いらっしゃいませ。日によりけりなんですけど、今日はキャラメルの方が先に売れちゃって」 「じゃあ。残りの根菜全部ちょうだい…食べたくてもいつも売り切れって言ってるスタッフのお土産にするから」 「いつも、ありがとうございます、マリさん。あっ…そうだ。亨が言ってたんだけど、お店移転するんですね」 「そうなの。駅前のビルに移ることにしたのよ」  かつて、笪也とルームシェアをした倉庫、スーパーキミヤスがあったあの商店街の跡地に建てられた駅前ビルの完成予定時期とビルの全体像が、新聞やネットニュースで明らかになった。  そのビルは、地下はオーガニック食品を扱うスーパーマーケット、一、二階は生活関連サービスや食品、衣料雑貨を扱う店、三、四階は会社オフィス、五階から二十階は居住階で最上階にはレストランができる予定だった。駅前デッキとビル直結の二階部分にマリのヘアサロンが移転するんだと話した。   「もう少し先の話しなんだけど、店移っても引き続き来てもらえるように、今からお客さんに話しているのよ。コウスケ君もナルさんも浮気しないでよ」 「もちろん、お店が移っても行きますよ…新ビルで新店舗、いいですね。楽しみでしょう?」 「不安もあるけど、ワクワクの方が大きいかなぁ…ねぇねぇ、まだテナント募集してるから、『T&K』も一緒に引っ越さない?…どう?コウスケ君」  幸祐は、えっ、と言ったまま、瞬きも忘れて、マリの顔を見た。マリは冗談半分のつもりだったのだが、幸祐のその様子を見て、もし、気になるのなら不動産会社の担当を紹介するわよ、と言って店に帰っていった。  たまたまマリが言った『T&K』引っ越し、というワードは、その後もずっと幸祐の頭を中をグルグル回って離れなかった。  半年前に二回目の周年イベントをした時から店を大きくしたいという想いが、頭の片隅にあった。今のショーケースは定番のハムカツサンドと他二、三種類を並べるだけで、いっぱいになってしまう。幸祐は、思いつくままにレシピを書き留めては、時間がある時にそれを試作していた。いつか大きなショーケースいっぱいに創作パンを並べてみたいと思い望んでいた。    駅前ビルへの『T&K』移転を想像していると、以前、トッキーのマスターに言われた、自分の直感に従わざるを得なくなる時があるんだ、という言葉を思い出した。幸祐は、自分にとってそれは今なんじゃないか、そう心が言ってるのを感じた。  幸祐は、笪也が仕事から帰って来たら、今のこの気持ちを話してみようと、決心した。  夜になって、いざ、帰ってきた笪也を目の前にすると、なかなか話し出せなかった。お帰りなさいの言葉と一緒にキスをして、脱いだスーツをハンガーに掛けて、晩ご飯は何かを伝えて、いつも通りにすればするほど、言えなくなっていった。  そして、いつも通りに、愛を交わした後、笪也の腕枕で啄むようなキスをした。しばらくすると笪也は欠伸をしながら、そろそろ寝るか、と言って幸祐を見た。 「ねぇ、笪ちゃん…聞いてほしいんだけど」  幸祐はようやく口を開いた。 「やっと、話す気になったか」  笪也のその言葉に、幸祐は驚いた顔をした。   「俺が帰ってきてから、お前の様子がなんとなくいつもと違うし、何かあったなって思ってたけど…なぁ、それって、お前を可愛がる前に聞けないような話しなのか?」    笪也は幸祐の乳首を摘んで、軽くひねった。   「あん…笪ちゃん。ごめん…そんなんじゃなくて…俺の望みというかさ…」    幸祐は、駅前の建設中のビルに、行きつけのヘアサロンが移転すること、そして、まだテナントを募集していることを、店に来たスタイリストのマリがそう言ったことを話した。   「で、お前は、どうしたいんだよ」 「店を広くしたいっていうより、もっと色んなパンを作って、お店にいっぱい並べて、今日はどれにしようって楽しく選んで食べてほしいんだよ。今はロールパンは一種類だけど、ハーブ入りとか、ドライフルーツを入れたりとか、あっ、スパイシーなのとか…スイーツ系のパンも、もっと作りたいし、それに」  パン話にヒートアップする幸祐を、笪也はキスで遮った。 「そんな熱い想いがあるなら、幸祐の思うようにすればいい。俺は、応援するよ。やれる時は限られてるんだ。それは俺が一番よくわかる。幸祐にとって、それは、今なんだろ?」  幸祐は、笪也に話して心底よかったと思った。と同時に後悔の思いも込み上がってきた。   「あの時…俺は、応援なんてできなかった」  幸祐が、帰ってきた笪也にすぐに話し出せなかった理由は、それだった。   「まだ、そんなこと言ってるのか?」 「だって…」 「でも、あの時作ってくれたじゃないか…俺の好きな煮込みハンバーグをさ。タッパーにいっぱい詰めてくれて…あれは、そういうことだろ?」 「笪ちゃん…」 「今だから言うけど…俺さ、泣きながらハンバーグ食べたよ。お前と別れてしまっても、頑張っていればいつかまたお前と一緒になれるって、ハンバーグを食べながらそう強く思ったんだよ」  幸祐の胸の中は、苦しいくらい、笪也の優しい想いで一杯になった。 「笪ちゃん…ありがとう…愛してる」    幸祐は、笪也に敬愛の気持ちを込めて深いキスをした。

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