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第17話 遂げる(3)
権兵衛の大将と君八洲に移転の話しをした翌日の夕方、幸祐が閉店作業をしていたところに、堀は君八洲夫婦を伴ってやって来た。
「今日も、完売みたいだね」
「お陰様で…あっ、ハムカツは作れますよ」
「いやいや、そうじゃなくてね…実はさ、キミちゃんが『T&K』さんが移転したら、ここで店を出したいって言ってきたもんだからさ」
堀の後ろで、頭を掻きながら君八洲は会釈した。
幸祐は、驚いて堀の顔を見た。
「キミちゃんもさ、根っからの商売人でね、スーパーを閉めちゃってからウズウズしてたんだろうね…お母さんも昨年亡くなって、夫婦でまた何かしたいって思ってたところに、昨日の砂田さんの話しがあって」
「はあ…」
幸祐は、突然の話しに目をパチクリさせていた。
「『T&K』さんが出た後に居抜きでね、ここを借りたいそうなんだよ」
「コウ君、突然ですまねぇな…やっぱり、かぁちゃんとまた商売したくってよ…」
君八洲は、夫婦二人でできるくらいの店を出したいと思っていたところに、幸祐からの話しがあり、直ぐに堀のところに話しにいったのだった。
「おにぎり屋をしようと思ってな…ここだと、大きさも丁度いいんだよ…ああ、でも今すぐってわけじゃねぇよ」
「わかりました。折角ご夫婦で来られたから、厨房とか見てって下さい」
堀は、じゃあ、後は宜しくね、と言って帰っていき、君八洲夫婦は、恐縮しながら店の中に入った。
夜になって、笪也が帰ってくると、幸祐は半笑いで、おかえりのキスをした。
「どうしたんだよ。何が可笑しいんだ?」
「君八洲さんがさ…おにぎり屋するんだって」
笪也は、そう言って台所に行こうとする幸祐を捕まえた。
「なぁ、ちゃんと分かるように言ってくれ」
笪也にバックハグをされながら、幸祐は、堀と君八洲夫婦が店に来た話しをした。
「君八洲さんは、堀さんの言う通り根っからの商売人だな」
「なんかさ、君八洲さんっておにぎり屋にぴったりだよね…想像したら可笑しくって」
幸祐は、体の向きを変えて笪也の首元に軽くキスをした。ご飯の用意するね、と言いながらも、まだ笑っていた。
「なぁ…ってことは、俺たちの住むところを探さないといけないんじゃないか?」
幸祐は、あっ、と言ったまま、笪也の顔を見た。笪也は、やれやれ、と言って、幸祐の額を小突いた。
「お前は移転で忙しいから、そっちは俺に任せてくれるか?…新店舗からできるだけ徒歩圏内で、遠くても自転車で四、五分のところを探すから」
幸祐は、うん、と言って、笪也の胸に小突かれた額を押し付けた。
『T&K』新店舗の開店に向けて、幸祐は、今の店をしながら新メニューの試作や、店舗の内装デザインの打ち合わせや施工都度の確認、新店舗の許可取りで多忙を極めていた。そして、駅前ビルの商業施設階のグランドオープンの広告ポスターが駅周辺に張り出された。
そんな頃、仕事中の笪也から連絡があった。それは思いがけない訃報だった。
(幸祐?…額田さんが、昨日の早朝に亡くなったそうだ。今夜、通夜式だから、忙しいとこ悪いんだけど、喪服とかの用意をしておいてくれないか?)
数秒の間の後、幸祐は返事をした。
「…うん…わかった。何時からなの?」
(十九時からだ。お前は無理に行かなくてもいいよ)
「そうだね…じゃあ用意しておくよ」
笪也は、すまない、と言って電話を切った。
幸祐は、あの時額田が入院したきり、その後の様子は気にもしていなかった。笪也も敢えて話さなかったのかもしれない。
忙しくても充実した毎日に、一滴の墨汁がポタリと落ちて、そしてゆっくりと広がっていく、幸祐はそんな心地だった。
亨に店を任せて、幸祐は、駅の反対側の大型スーパーへ、笪也と自分の黒の靴下と自分用の黒のネクタイと数珠を買いに行った。
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