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第5話 ( クリアファイル )

 一ノ瀬の車の中。  助手席で黒崎が鳴動したスマートフォンを見れば、通知は職場からのメッセンジャーだった。必要な物がある場合、今日中に返信を寄越すようにと言う事務からの通達だ。  ──そういえば、クリアファイルがもう無かった。  黒崎は短く、クリアファイル、と打ち込んで送信をタッチ。  その時、ポーンと、カーナビが予備動作音を鳴らしたのだが、黒崎は自分の用件が済んだので、顔を上げると気にせず運転席の一ノ瀬に話しかけた。 「一ノ瀬、甘い物が切れた。何処かコンビニに寄ってくれ。エクレアが食べたい」 「ちょっともー。黒崎! カーナビがポーンて鳴ったらお口チャックして!」  音声ガイダンスを聞き漏らした一ノ瀬は、カーナビに目を落として曲がる方向を確認する。  黒崎はタイミングが悪く、いつもカーナビの案内と同時に口を開く。免許は取ってもペーパードライバーな黒崎には、予備動作音の理由が分かっていなかったらしい。 「あ、ああ、すまない?」  黒崎は謝って……また話し始めた。 「それで? 俺はあの時、振られたのか」 「どうして?」 「だって、お前は何もなかったことにしたろう。俺とのこと」 「告白もされてないのに、振ったりなんて出来ないでしょ」  性交渉は、一ノ瀬の中であくまで恋愛としてはノーカウントであるらしい。  黒崎は一ノ瀬との曖昧な──セフレと言うよりは、セックスもする友人──という関係を、半年経った現在もまだ続けていた。  ──いや、続けることが出来たのだ。  その事に自信を持つことにして、じき九月に入ろうかという時分、黒崎は温泉に行かないか、と、一ノ瀬に提案してみた。 「いいね、二泊三日くらいなら、僕も都合がつくよ」  急遽旅行が決まったのが水曜。  ネットでの検索は何処も埋まっており、木曜日になって駆け込んだ旅行カウンターで黒崎はなんとか宿を取り付けた。  ふたりが今、向かっているのは日光東照宮。  旅行カウンターから電話で何処がいい? と黒崎がたずねると、一ノ瀬は「日光」と即答した。 『僕さ、修学旅行っていったことないんだよね』 「修学旅行? そういやあったな、そんなものが」 『黒崎は? どこに行ったの』 『あいにく俺も貧乏で、その手の行事に参加したことはない』 『あはは。そっか、それじゃあ、ふたりでしようよ、修学旅行のリベンジ!』  かくして金曜日に休みを取った二人は。  都内から車を走らせ昼すぎに宿へと着いた。  昼食は途中の道の駅やコンビニで買い込んだサンドイッチや握り飯で済ませていたので、ホテルの駐車場に先に車だけ入れさせて貰い、ふたりは徒歩で東照宮へと向う。 「すごいね。こんなに派手なお寺、僕、見たことないなあ」  一ノ瀬は感嘆の声を上げながら建造物を見上げる。  修復が終わった東照宮の彫刻は色鮮やかに復元されており、一ノ瀬は店の女の子達にメッセージアプリで写真を送ってあげるのだと言って、文字通り極彩色の彫像をスマートフォンで撮影している。  黒崎も一枚だけ写真を撮っていたので、一ノ瀬はその手元を覗き込んだ。 「何を撮ったの?」 「象」 「象……」  覗き込めば。黒崎の手元には東照宮で有名な眠り猫でもなければ、三猿でもない。確かに象が二頭、写っている。  黒崎はあまり可愛いとは言いがたいその象の写真をよほど気に入ったのか、もうスマートフォンの待ち受けにしていた。  一方、一ノ瀬のスマートフォンは社用のメッセージアプリに流した猫や三猿の写真に、店の女の子達から通知の嵐となっていた。 「あはは、ブサカワイイだって」 「…………」  返事がない。 「ちょっと黒崎、妬かないで」 「妬いてない」 「もうスマートフォンは見ないから、それでいい?」  一ノ瀬はやれやれとチノパンのポケットにスマートフォンを滑り込ませた。 「一ノ瀬、後で俺も写真が欲しい」 「いいよ、ブルートゥースで流しておくよ」 「? なんだそれは? クラウドじゃないのか?」 「え? もしかして黒崎のスマホ、僕のと違うOS?」  そこで。  五〇代のふたりは頭を悩ませ、結果、一ノ瀬が、さっきと同じ様にメッセージアプリで写真を黒崎のスマートフォンに送れば良いのだと気がついて、問題は解決した。  一ノ瀬が操作しているスマートフォンは、まだ従業員達からの通知が鳴っている。 「すごいな、店には何人いるんだ?」 「うち、関東に七店舗あって、女の子達が それぞれ二十人くらいずついるから……」 「それ全部に流したのか」 「社用のメッセージアプリに流したからそうかも」 「そういう時は返信不要と書いておくものだ」 「えー。だって、皆のコメント聞きたいじゃない。懐かしいですって言ってる子もいたもん」  口髭の初老過ぎが、口を尖らせんばかりの言いぶりに、黒崎は、なんでこいつはこれで可愛いのか。  と、首を捻る。  ──一ノ瀬は可愛い。  黒崎にとってそれは昔から──口髭の生えた今も変わらない認識だ。 「何?」 「なんでもない」  しげしげと見つめすぎたかと反省し、黒崎は口元を押さえて顔を逸らした。  人の流れに乗って奥宮まで見た二人は、これは修学旅行だからな、と、宝物館と美術館にも入って、冷やかしながら展示物を眺めてまわり、夕方、宿へと戻った。 「へー。個室露天風呂つきのお部屋なんて、黒崎よく取ったね」  仲居に案内されて部屋に入った一ノ瀬は、想像していたよりも豪勢な部屋に意外という顔を見せた。旅費は折半とは言え、黒崎の倹約ぶりは一ノ瀬も知っている。 「他に部屋が空いてなかった。すまない」 「どうして。全然だよ」  一ノ瀬が心付けを渡して仲居を送り出すと、黒崎を振り返った。 「良いお部屋をありがとう、黒崎」  荷物を下ろすと、一ノ瀬はスマートフォンを充電のため壁のコンセントにつないだ。ついでにポットに湯も沸かす。  部屋の中央の座卓に着くと、茶櫃を引き寄せてお茶を淹れ始める一ノ瀬に、手慣れているな、と、黒崎はまた少し胸がもやついた。 「黒崎、中に銘菓が入ってた。甘いやつだから僕の分もあげるね」 「あ、ああ」 ──いや、一ノ瀬は今、俺といるんだ。  突然、突っ立ったまま自分の両頬を叩く黒崎に一ノ瀬が驚いて顔を上げる。 「え? 何、どうしたの」 「なんでもない」 「それならいいけど、今、温泉入れるね」 「昼間っから入るのか」 「え、だってこんな山の中、夜になったら真っ暗になっちゃって眺望も何もないでしょ」 「星空が見えるんじゃないか」 「そう?」 「少なくとも茨城の夜はそうだ」 「あー、黒崎、茨城出身だったねぇ」  そこでふたり、押し黙った。  黒崎も荷物を下ろすと、一ノ瀬の隣に腰を下ろす。  もう一枚の座布団が置かれているのは、もちろん座卓を挟んだ一ノ瀬の向かい側だ。 「こっちに来るの?」 「うん」 「ふふ、じゃあ、長距離運転をした僕をねぎらってもらおうかな」  一ノ瀬が両腕をひろげたので。  黒崎はそのまま一ノ瀬を畳の上に押し倒した。 「んっ」  キスをする。  もう何度目かも分からない。  自己申告の通りに一ノ瀬はセックスをしたがるので、黒崎もそちらに不自由はなく、三十年分を取り戻す勢いで一ノ瀬を抱いた──抱かせてもらった。 「ぁ……? 黒崎? 待って、口でしてくれるんなら僕シャワー浴びるから……」  一ノ瀬は、キスの後チノパンのジッパーを下ろした黒崎が、そのまま顔を股間に近づけたので慌てて足を閉じる。  顔を一ノ瀬の太腿に挟まれて、不満そうに黒崎が言った。 「かまわない」 「僕がかまうの、ね、お願い」 「待てない」 「あっバカ……っぁあっ……もうっ」  かぽりと咥えられ、一ノ瀬が頭を振る。 「やっ……くろさき……」  遠くで、まだ一ノ瀬のスマートフォンが時折、思い出したように鳴動している。  その振動に気がついた一ノ瀬が、気を散らした。 「仕事のメールも来てるかなあ」 「休暇にしたんだろ、忘れろ」 「まあ、スタッフは優秀だし、大丈……んっ」  フェラチオを再開した黒崎に、一ノ瀬は初めのうちこそ押しのけていた頭へ、今はもう指を梳き入れて愛しげに撫で回している。  結局食事の時間になるまでふたりは畳の上でペッティングを楽しんで──仲居に入るタイミングを覗わせてしまった。 「こんなえっちな修学旅行なんて聞いたことないよ」  居住まいを正して運ばれ始めた料理を前に、一ノ瀬はぼやく。 「お前がねだったんだろうが」 「こんなに長くすると思わなかったの」 「夢中だったろ」 「そうだけど」  機嫌の直らない一ノ瀬の口に黒崎は岩盤焼きのヒレ肉を突っ込んだ。  押し込まれた肉をもぐもぐとやって一ノ瀬は、食べさせれば黙ると思って、と笑った。  夜。 「ホントだ、すごい」  都内ではけして見られない星月夜に、個室露天風呂につかりながら一ノ瀬が感嘆の声を漏らした。 「偶然の産物だったが、この部屋が取れて良かった」  黒崎も満足げに頷く。 「広いお風呂で良かったね、一緒に入れて」 「まあ、男二人で入る設計だった訳じゃないだろうがな。ファミリー向けなんじゃないのか? 夏休みも終わったところだし、だから空いてたんだろ」 「ああ、そうかも」  クスクスと笑って一ノ瀬は黒崎の頬にキスをした。 「誘ってくれてありがとう。ここ数年ずっと仕事ばっかりだったから」 「俺も似たようなものだったしな」  黒崎がそっぽを向く。それが照れている時の仕草であることを、一ノ瀬は覚えていた。  そっぽを向いたまま、黒崎は続ける。 「悪かった」 「え?」 「──昼間、きっと今までの恋人とも、こんな旅行を一ノ瀬は何度もしていて、旅慣れているのだろうな、と思ったら、妬けた」 「それでしつこかったの?」 「全部、俺で塗りつぶしたい。お前の過去、全部」 「それは困るなあ」 「恋人でもないしな」  黒崎が闇に紛れて嗤った。 「黒崎。今はそう言う事考えないの。修学旅行でしょ」  一ノ瀬は湯船の中で黒崎の足をトンと蹴る。 「そうだった」 「でもこれは、大人の特権です」  その蹴った足で、一ノ瀬は黒崎の太腿の間に自分の足を器用に潜り込ませた。 「ねえ、これ、今度は僕がしゃぶろうか?」 「いいのか?」 「いいよ」  一ノ瀬は黒崎を湯船の縁に座らせると温まった両手で陰茎を包み込む。  あむあむと亀頭を口にする一ノ瀬は、まるでアイスキャンデーでも咥えているようだ。口元が髭で隠れているのが、またなんだか、いやらしい。  だが黒崎がそんなことを考えていられるのも最初のうちだけだった。  一ノ瀬は長い黒崎の陰茎をぐっと飲み込むと、喉奥まで使ってディープスロートを始める。 「ぅあ……っ」  一ノ瀬の口淫に、黒崎は五分と持たなかった。 「一ノ瀬、もう出るから、抜くぞっ」  黒崎は一ノ瀬の口元から引き抜く──と、その時一ノ瀬が陰茎に舌を押し当て続けたので、耐えきれずに射精してしまい、白濁液は一ノ瀬の口髭にかかり、たらりと垂れ落ちた。 「はぁ、すごいでしょ、うちの店の女の子、皆これ出来るんだよ」  ふぅふぅと息をつきながら髭についた黒崎の精液を、一ノ瀬は指で掬う。 「髭射なんてされたのはじめてだよ僕」 「お前が教えるのか」 「え? 昔はそうだったけど、今はもう教育指導はやってないよ?」  黒崎は無言で一ノ瀬を捕まえると、ぐるんと後ろ向きに抱きかかえた。 「え、ちょっと」  身じろぎする一ノ瀬を抱えたまま黒崎は、湯船を上がって、既に敷かれていた布団の上に放り出す。 「だから、僕の仕事なのこれ!」  聞いているのかいないのか、荷物の中からローションを出して黒崎は振り返った。 「プライベートに仕事を持ち込むな」 「ちょ、それ今まで僕のこと振っていった人たちのセリフ!」 「だから振られるんだお前は」 「黒崎が喜ぶと思ったのぉ!」 「あんなのはバキュームだ。ちっとも良くない」 「すぐイッたくせに!」 「あーあー店にとってコスパの良いプレイだな」 「言い方!」  黒崎は話を聞かずにローションをどろりと大きなてのひらに垂らして、先ほどまで一ノ瀬が咥えていた陰茎に塗りつけ、ゆるゆると扱いている。 「一ノ瀬」  風俗客扱いされて黒崎は相当頭にきているようだ。 「ひっ」  おもわず四つん這いになって逃げ出した一ノ瀬の腰を掴んで、黒崎が引きずり戻す。  ぬぷぅ……っ 「んぁあ……っ」  持ってきたコンドームも使わず、黒崎は一ノ瀬のアナルを貫いた。  度重なる黒崎とのセックスで、ほぼ未使用だったものが受け入れやすくなったとはいえ、まだ一ノ瀬のアナルはそう使い込まれてはいない。 「ぅぁっ…ぁ…ぁあっ…ッ」  いつもは一ノ瀬が入念に準備をしてから始める上に、最初をのぞいてコンドームも普段は着け、中出しだって身体を思って避けてきた。 「ぅ……キツ……」  黒崎は一度引き抜いた陰茎にローションを追加で垂らして、一ノ瀬の後ろをぐちゃぐちゃにして犯す。 「ぁ……ごめ……黒崎……ごめ……」  平謝りの一ノ瀬に、黒崎は、最近覚えた一ノ瀬の良いところばかりを突き上げた。  突かれるたびに一ノ瀬は声を上げる。 「ぁっ……あっ……あっ……やだ、イきたくない、こんなんでイかされたくないぃ……」 「うるさい、一ノ瀬なんて……俺のでイってろ……っ」 「ぁあっ……あっ」  布団にしがみついてバックで突かれる一ノ瀬の背は弓なりに反り、高く尻を突き上げた。 「ここ……っ好きだって…この前、言ってたろ……っ」  黒崎に容赦なく奥を突かれ、一ノ瀬の眦は弛んだ涙腺から涙が溢れる。 「ゃ……好きじゃ…な……っ……黒崎のバカっ」 「嘘吐きが…っ腰、押しつけてきてるくせに……っ」  ぬぷっ、ぬぶっぬぷっ…… 「ぁあっんっ…………っ」  そこを執拗に黒崎に突かれ、一ノ瀬が先に中でイってしまう。 「んぅっ」  びくびくと身を震わせる一ノ瀬の身体に持って行かれ、黒崎も続けざまに中に射精してしまった。 「…………」  一ノ瀬はぐったりと布団の上に伸びると、黒崎を、ちょいちょいと指先で呼ぶ。  黒崎は、気まずそうに一ノ瀬の隣に横たわった。 「ねぇ」  隣に来た黒崎に、一ノ瀬は言う。 「君のそのすぐ妬く所、もうちょっと、どうにかなんない?」 「俺も、自分がこんなにも嫉妬心が強いとは思わなかった」 「友達でこれじゃ、恋人になったら僕、殺されそう」 「怒ってないのか」 「まあ……一応、気持ちよかったから?」 「宗旨変えは沽券に関わるんじゃなかったのか」 「黒崎が変えといてよく言うよ」  それからふたりは笑って、もう一度温泉につかり直した。       ◉  翌日は足を伸ばして尾瀬へ。  旅館で作って貰った折詰め弁当を用意し、湿地帯を歩く。 「腰が痛い……」 「すまない」 「五十男の腰をよくまああそこまで反らせたよね?」 「身体、柔らかいんだな一ノ瀬」 「君のバカ力でへし折られたんです」  トレッキングコースは一番軽いルートを選んだ。リュックを持ってきた黒崎が水筒と弁当を背負っている。  換わりに一ノ瀬が地図を読んでルートを順調に進み、存分に夏の終わりの尾瀬を楽しんだ。  昨日の一件で懲りた一ノ瀬が追加の写真を発信しなかったので、着信の鳴動も今日は時たまする程度だ。  ふたりは一日を自然の中で過ごし、夕方、初日の旅館に戻るとトレッキングの疲れを温泉で癒やす。  食事をとって布団に転がると。  黒崎はスマートフォンでこの週末に起きたニュースにざっと目を通しはじめ、一ノ瀬はその隣で、ぐったりと伸びていた。 「あー、明日はもう東京か。うー、帰りたくない」 「帰りは俺が運転しようか?」 「うーん、僕の車、使用者が僕以外に保険かけてないんだよね、今度契約者範囲変えとくから、そしたら頼むよ」 「わかった」 「ん……煙草吸おうかな」 「一応喫煙ルームにしておいたが」 「ありがと……」 「そうだ、黒崎、追加の写真」 「ああ。欲しいな」 「僕もう眠いから、勝手に送っておいて」 「ええ?」 「ラブラブハニィゴー」 「ラブラブハニィゴー?」 「そ、008215、それでロック解除するから」 「お前な、安易にスマホのパスワードを……」 「だって黒崎だもん」  そう言ったきり一ノ瀬がそこから動く気配がないので黒崎が顔を上げると。  一ノ瀬は枕に突っ伏して、くーくーと寝息を立てていた。  翌朝になっても一ノ瀬が疲れ果てていたので、黒崎はチェックアウトを十二時まで伸ばし、ふたりはランチを旅館で取ってから日光を出発する。  平日の月曜、上りは若干の渋滞となり、夕方遅くの東京入りとなった。 「じゃあ、またね、黒崎」  一ノ瀬は黒崎を下ろすと、ハザードを二回点灯させ帰っていく。  ──これで、恋人じゃないんだよな。  黒崎は首を捻る。そもそも恋人とはどういう定義だったろうか。 「わからん」  人生に、そんな存在がいたことのない黒崎にはまるで見当もつかない。  黒崎は首を捻りながら、一ノ瀬との間に特になんの進展もなく、この週末の小旅行を終えた。  火曜日の朝は容赦なくやってきて。  黒崎は少しの眠気を覚えながらも事務所に顔を出す。今日の予定は午後にクライアントの法律相談が二件、それだけの筈だった。  だが金曜日に休みを取った分、その間の業務が寄せてきていることは目に見えている。  オフィスに着くと、自分のデスクの上には案の定、書類とメモが山になっていた。  しばらく机の上の書類を選り分けていると、自席の電話が鳴る。 「はい、黒崎です」  取り次がれた電話を受けて、しばらく話を聞いていた黒崎は茫然と呟いた。 「嘘でしょう」  詳細を聞き取って電話を切ると、黒崎は、その件についての依頼主、つまり、一ノ瀬へと電話を掛け直した。 『え、黒崎。どうしたのこんな朝っぱらから』 「一ノ瀬、仕事の話だ」 『仕事?』 『ついさっき、お前の依頼で俺が釈放にして付添人をしている少年の死亡連絡が来た。収容された児童自立施設で昨夜、首を吊ったらしい。彼のスマートフォンから最後に送信されたのは、どうやらお前宛のもので、送信済フォルダからショートメッセージがいくつか確認されたそうだ』  一ノ瀬は、ひと息に流れた黒崎の言っていることの意味を追えなかった。 「え、どういうこと? メッセージは来てないよ。何かあったら電話しなさいって、電話番号は教えたけど、メッセージアプリも特に繋がってないし……」  一ノ瀬は通話をマイクに切り替えると、スマートフォンをタップし、やがてSMSのゴミメールの中に、見慣れない番号からのメッセージが埋もれていることに気がついた。 『こんにちは、一ノ瀬さん』 『今日施設でまた、ひまわりの花が咲きました』 『お仕事お忙しいですか』  届いていたのはたったの三通。  それも、一日一通、三日間のことだ。  その日付は。 『この子死んだの』  一ノ瀬が黒崎と旅行に出ていた三日間のことだった。 「すまない、一ノ瀬、俺が──」 『何言ってるの。黒崎は何も悪くないでしょ。嫌だったら僕が全部ノーと言えば起きなかったことだもの。黒崎はちゃんと釈放にしてくれたし、身元保証人にもなってくれて、施設にまで入れてくれて。あの子に垂らした蜘蛛の糸をちょん切ったのは、僕自身だ』 「一ノ瀬」 『今まで気をつけてたんだ、心の弱い子供達が、自分が心を許した相手との連絡がほんの数日取れなくなっただけで、酷い時は三時間で自死しちゃうケースは割と多くて……そうならないように保護した子は、いつも複数の誰かと心が繋がるまでしばらく僕が面倒を見ていたんだけど……薬断ちのトレーニングはきついし、決心はしたけれど、きっと耐えきれなくなって僕に……連絡を──』 「一ノ瀬!」 『これは僕のミスだ』 「馬鹿言うな。一ノ瀬、自分だって言ってるじゃないか、人を助けるのは一人では無理だ。親だって二人でやって、それでもダメで医者にかかってる」 『わかってるさ』  黒崎がほっと安堵した次の瞬間。 『でもあの子には僕しかいなかったのに!』  一ノ瀬は最後に小さな声で、僕、浮かれてた、と呟いて通話が切れた。  ──こんなことってあるか。  手の中のスマートフォンの待ち受けの象が、今は腹立たしいとしか思えない。  だが今はそんな場合ではなかった。  検死から戻る少年の遺体を引き受けて、死体検案書を貰ったら死亡届を出して、火葬の手続きをして──おそらく一ノ瀬も来るだろう。その予定を手帳に書き込んでいると、事務員が頼んでいた文房具を届けに来た。  黒崎が注文しておいたクリアファイルだ。 「黒崎弁護士、どちらに」 「ああ、そこに置いておいてくれ」  黒崎はデスクの隅を指し示して、溜息をついた。  ──母親を探すために一ノ瀬は興信所を雇うだろうか?  黒崎は一瞬、知り合いを案内するべきかと名刺ケースに手を伸ばしたが、いや、一ノ瀬は毒親ならいない方が良いという主義だった、と思い出してその手を下ろした。  それにしても、一ノ瀬は今まで何人の子供達の面倒を見てきたのだろうか。それは黒崎の知らない三十年間だ。  ──その話をいつか聞こう。  黒崎はそう決めると、当初の予定業務を前倒しで始める。帰りには一ノ瀬の事務所に顔を出したい。本当は今すぐ駆けつけたかったが、デスクの書類の中には至急の案件もあるようだ。  ──あれは、そんなに弱い男じゃない。  黒崎は一ノ瀬を信じることにして、目の前の書類を手に取り──それを下ろした。  ──だが万一はある。  スマートフォンを掴むと、黒崎はメッセージアプリを開く。 『一ノ瀬、夜、一緒に飯が食いたい。二〇時頃、お前の事務所へ行ってもいいか?』  祈るような気持ちで返信を待っていると、いいよ、と短い返事が返ってきた。  一ノ瀬はした約束を守る方の人間だ。  黒崎はほっと胸を撫で下ろすと、一度デスクに置いた書類を、もう一度手に取ったのだった。       ◉  黒崎の一ノ瀬を見守る日々がまた始まった。  と言っても、学生時代のように一ノ瀬に張り付いて見守る訳には行かないので、もっぱらツールのメッセージアプリと、電話に頼る他はない。  うるさがられて拒絶されては元も子もないので、黒崎は慎重に連絡を取った。  現に、一ノ瀬からはあの日以来ぱったりと夜のお誘いが来なくなっている。  黒崎も、とてもそんな気分になれなかったのでしばらく気がつかなかったのだが、指折り数えてみればもうふたつきは過ぎていた。  黒崎は今日も自分のランチ──事務所へ来る途中のカフェで買ったサンドイッチボックスを撮影すると一之瀬へメッセージと共にで送る。 『俺は今から昼だ。一ノ瀬はもう起きたか? 朝メシは作ったのか?』  しばらくすると、一ノ瀬の家のテーブルにトマトが入ったスクランブルエッグとトーストのった皿が置かれている写真が送られてきた。 『今から食べるとこ』  今日も一ノ瀬は動いてはいるようだ。  黒崎はこれを、二日おきくらいに朝昼晩を変えてやり、一ノ瀬にどうにかこうにか現状の写真を送らせた。  ──一ノ瀬がメッセージ好きで良かった。  週に一回は、一ノ瀬に会いにも行く。  本当は毎日でも会いに行きたかったが、黒崎は我慢した。自分の仕事もあったが、一ノ瀬はひとりの時間も大切にする人間でもあったので。  けれど。  見守り続けてきた筈の一ノ瀬の言動がおかしいなと思い始めたのは、街中が来月のクリスマスに向けてイルミネーションを飾り付け始めた頃だった。 「ねえ黒崎、スマホに届いたメールが勝手に消えちゃうなんてある?」 「それはないな」 「だよね、おかしいなあ」  今夜は一ノ瀬を食事に連れ出していた。  一ノ瀬は食べているし、寝てるかと聞けばそのつもりなんだけどね、と答える。  けれどあからさまに一ノ瀬は痩せてきているし、目の落ちくぼみが酷い。 「寝てると、スマホが鳴ってね、一瞬通知が見えるんだけど、メールは何処にもなくて」  一ノ瀬の好きな呑み屋に連れ込んで、刺身を食べさせている。酒は食事がすすむ程度のコップ酒だ。 「何で消えちゃうのかなあ」 「夢だろうそれは。眠りが浅いんじゃないのか?」 「別に睡眠不足は感じてないんだけどな」 「ホントか?」 「前より冴えてるよ」  とはいえ、相手の睡眠時間など一緒に暮らしても無い限り知る方法は──と、手元で検索を掛けていた黒崎の手が止まった。 「一ノ瀬、メールの設定を見てやるからスマホを寄越してくれないか」  一ノ瀬はカウンターの上にスマートフォンを滑らせる。  ──これか?  黒崎は受け取ると、メールではなく、ヘルスケア、というアプリを開いた。  見ていくと、あった。睡眠と言う項目だ。0時間6分と表示されている。  ──記録を取っていないのか?  表示を週単位に切り替えると、一週間分が表示され、平均睡眠時間0時間17分、と出た。  背中に冷たい物が走る。  続けて月単位を押すと、やはり全体的に睡眠時間は少ない、平均睡眠時間は3時間24分だった。 「寝てないじゃないか」 「え?」  ──一ノ瀬の消えるメールは、現実でも夢でも何でもない。明確な幻覚だ。 「何?」 「一ノ瀬、今夜はお前の家に泊まるからな」 「ええ、気分じゃないなあ」 「頼む」  黒崎が真剣な目で頼むと、一ノ瀬は、しかたないなあと笑って、いいよ、と答えた。 「じゃあ行くぞ」 「え、まだ残ってる」 「いいから、来い」  黒崎は強引に一ノ瀬の腕を取る。  地下鉄に乗って一ノ瀬のマンションへ向かった。 「ねえ、何? 怖いよ黒崎」 「ああ、悪い。怖がらせるつもりはなかった」 「いつも残したりなんかしたら、怒るか、黒崎が食べるかするのに」 「時間が惜しかった」  事態が飲み込めない一ノ瀬に、黒崎は、どう答えれば良いのか悩む。今すぐ病院に連れて行きたいところではあるが、今のままでは自分は診察に立ち会えない。 「時間?」  聞き返した一ノ瀬に黒崎が一瞬迷って答えた。 「お前と早くしたい」  それは嘘ではない。  ──抱き潰せば一ノ瀬は眠るだろうか。 「ちょっと、公共の場でそういう事言わないで」  ぎょっとした一ノ瀬の肩を黒崎は抱き寄せる。 「知るか」  ──今は、それどころじゃない。 「黒崎。変だよ?」  一ノ瀬が自分を見る目が少し怯えていた。  ──こんな顔をさせたい訳じゃなくて。  黒崎は大きく深呼吸をする。  ──こんなんじゃだめだ。  それきり黒崎が黙り込んだので、一ノ瀬は逆に気を遣い、そういえばいろんなエクレアがあるパティスリーが近所に出来たんだ、黒崎エクレア好きだったでしょう? と。顔を覗き込まれた。  最寄り駅で下車すると、地上は既に木枯らしが吹いている。 「寒いな」 「うん寒いね」  冬の夜を歩きながら、ふたりはマンションへの道を急いだ。 「すっかり冷えたね、今お湯ためるから入って」  一ノ瀬はマフラーを外しながら、片手で黒崎にハンガーを手渡す。 「?」  その手を黒崎が掴んで放さなかったので、一ノ瀬は振り返った。 「黒崎、ホントにどうしたの」 「寝たくないのか?」 「え? えと、どういう意味?」 「純粋に寝るという意味でだ」 「え、なんで、そんなことないよ」 「じゃあ何故、寝ていない」 「寝てないって言うか、寝つかないだけだよ。仕事終わって帰ってくるでしょ。お風呂入って二時にはいつもベッドに入ってるし。ただそこから朝方までゴロゴロしちゃって、そのまま仕事始めてるだけで。ねえ、なんで僕が寝てないって知ってるの」 「いつからだ」 「ここ一週間くらいかなあ。ねえ、なんで?」 「お前の、スマホのアプリに睡眠時間が分かるものが入ってた」 「そんなのあったけ」 「眠れるなら眠りたいんだな?」 「ええ? 必要ないよ、僕元気だし、特に眠くはないよ」 「一ノ瀬」  黒崎はコートのままぎゅうと一ノ瀬を抱きしめる。  久しぶりの抱擁だった。  一ノ瀬は訳も分からず抱きしめられたまま、ふふ、と笑う。 「なんだかほっとするね」 「寝てくれるか?」 「うん、いいよ」  黒崎が一ノ瀬の肩を掴んで顔を覗き込んだ。 「本当か?」 「うん、でも上手く寝れるかなあ」 「そのために俺が来た」 「え、ヤりにきたんじゃ……」 「抱き潰す」  一ノ瀬は一瞬呆れた顔をして、黒崎を見る。 「黒崎はホントたまに荒っぽいよね」  それからくすくすと笑って、じゃあ、徹底的にね、と、黒崎の耳元に囁いた。       ◉  浴槽に湯をためて、リラックスと快眠のバスソルトを溶かし込むと、湯の色は夜空のような色に染まった。  黒崎は一ノ瀬を後ろから抱き込むように浴槽に入って、一ノ瀬の首筋や肩を揉む。次に上腕、二の腕、てのひらも揉み込んだ。 「ああ、とても気持ちいいよ黒崎」  ふぅと力の抜けた一ノ瀬の身体を抱きとめて、黒崎はうなじにキスをする。 「ぁっ」  黒崎の不意打ちに、一ノ瀬が思わず声を上げると、黒崎の指先が後ろから伸びてきて、クリクリと両乳首を弄ばれた。  うなじに、首筋に、肩口に。  黒崎は唇と舌を這わせる。 「あぁっ……っゃ……っぁ……っ」  二ヶ月ぶりの一ノ瀬の声と身体に、黒崎も興奮していた。 「一ノ瀬……好きだ」  囁かれ、一ノ瀬は、我慢が効かなくなってぐるりと黒崎に向き直ると、黒崎の頭を抱え込んでくちづけ──いやらしく舌を求めてくる。  黒崎は片手で一ノ瀬の腰を支え自分の陰茎と一ノ瀬のそれを合わせると湯の中でまとめて扱き始めた。  徐々に熱が集まり互いの陰茎が脈打ち始めるのを感じながら、二人は無心で深いキスをする。 「ん…っちゅ……んんっちゅ……はぁ……」  黒崎の長いキスに溺れかけた一ノ瀬が息をつぎに唇を離したので、黒崎は今度は先ほど指先で可愛がっていた乳首に舌を這わせることにした。  れろ……ちろちろ、ちゅ…… 「ぁ?! あぁっ……!」  一ノ瀬はびくびくと肩を震わせ、黒崎の手ので湯の中に先に射精してしまった。 「ひどい、黒崎、お湯に出しちゃったじゃない」 「はは、雲が浮かんでる」 「やめて」  一ノ瀬はざばりとバスタブを出て、シャワーのコックを捻る。  黒崎は一ノ瀬を目で追って、眉を顰めた。  湯が流れる一ノ瀬の身体は、やはり夏より一回りほど痩せている。  見えなかった肋骨が、今は薄らと浮いて見えた。  黒崎もバスタブを出ると、身体を洗い始めた泡だらけの一ノ瀬の身体を、てのひらで万遍なく撫で回しはじめる。 「洗ってくれるの?」  一ノ瀬が笑って黒崎に身体を預けると、指先がヌルヌルと一ノ瀬の乳首をまたもや弄んだ。 「ぁ……っ、そこばっかり、黒崎……変態っ」 「こんなところで気持ちよくなるお前の方が変態だ」 「ひどっ……ぁあッ……仕方ないでしょ、これは……学生の頃……」 「聞きたくない!」  突然。  黒崎は渾身の力を込めて一ノ瀬を抱きしめる。 「ごめんね黒崎」  一ノ瀬は首を捻って、黒崎の耳にキスを落とした。 「続きしよ? でももう、お風呂は熱いから、ベッドでね」  一ノ瀬は、準備していくから先に出て、と黒崎をバスルームから閉め出す。 「僕のバスローブ使ってて」  そう言われてしまっては、仕方なしにバスローブを羽織ってベッドへ向かい、黒崎は寝室で天井を眺めていることにした。 「お待たせ」  しばらくして、同じくバスローブ姿の一ノ瀬が黒崎の顔を覗き込む。 「要は僕が疲れないとダメなんでしょ。黒崎、そのままでいて、今日は僕が乗る」  一瞬ぎょっとなった黒崎に、一ノ瀬は騎乗位だから安心して、と、笑った。  黒崎の足の間に潜り込むと、一ノ瀬は黒崎のバスローブを割って、陰茎を取り出す。唇で亀頭に幾度もキスを繰り返しては、根元から舐め上げた。 「……ぅ」 「黒崎はゆっくりが好きなんだよね、挿れる時もいつもすぐ動かないもんね」  喉奥まで飲み込んでからゆっくりと引き抜けば。 「完勃ち、ふふ、えっちな形。いつもこれが僕に入ってるんだよね、いやらしいな」  一ノ瀬は腰を浮かせるとアナルに硬くなった黒崎の先端を押し当てる。 「挿……れるよ……」  一ノ瀬は、黒崎の胸板に手を突くと、ゆっくりと腰を沈めていった。 「ぁ……ぁあ……あ」  洗い髪が乱れて、いつもオールバックの一ノ瀬の前髪が下りている。 「黒崎……っ」  たんっ  根元まで納めて、一ノ瀬の尻が黒崎の太腿に落ちた。  髪を掻き上げながら、一ノ瀬は黒崎の様子を伺う。 「動くね」  艶めかしく腰を揺らして、奥まで黒崎の陰茎が届くと、一ノ瀬のアナルがきゅんと締まる。一ノ瀬にも自分でそれは止められないらしく、恥ずかしそうにしながら、懸命に腰を振る。 「ぁ……んんっ……」  ふーふーと息をつきながら、一ノ瀬はやがてろくに腰を振れぬまま、黒崎の胸板に倒れ込んで、きゅうきゅうと陰茎を締め上げた。 「ぁ……あ……ぁ」  びくびくと胸の上で一ノ瀬の身体が痙攣している。 「一ノ瀬、イったのか? 中だけで?」 「言わないでよ。こんな、恥ずかし……ぁ!」  ズン、と、黒崎が下から突いた。 「まだだ、一ノ瀬。今度は俺が動くぞ」 「待って、まだイったばかりで……ぁっ……あっ……あっ…ああぁ……っ」  黒崎は始めこそ大人しく下から突いていたが、やがて我慢できなくなったのか、上体を起こすと、そのまま一ノ瀬を後ろへ押し倒して、正常位で一ノ瀬を犯しはじめる。 「一ノ瀬……」  だぶついたバスローブから覗く一ノ瀬のやつれた身体に幾分、罪悪感を覚えながら、黒崎は一ノ瀬を突き上げた。 「無理、くろさ…き……、むっ……ぁあっ」  やがていつもの、一ノ瀬の最奥が開く感覚がおとずれる。 ごぷんっ 「~~~~~~~~~~ッ!」  一ノ瀬が声にならない声を上げた。  ひゅーひゅーと呼吸する喉にキスを落として、黒崎はひたすらに、ドチュドチュと一ノ瀬の最奥を責める。 「ゃ……っぁ……っあっ……!」  ──落ちろ。  黒崎はいつもと違い、激しく腰を使った。  ──落ちてくれ。 「ぅあ……っあ……ぁ……ぁあっ!」  ガツガツと貪るように腰を振って一ノ瀬を執拗に揺さぶる。 「ぁ……」  やがて必死に仰向けのまま枕を掴んでいた一ノ瀬は、ついに──意識を手放した。  それでも。  一ノ瀬が眠りに落ちたのは、四時間半ほどのことだった。  黒崎がシャワーを浴びてベッドに戻り、会社のメールをスマートフォンでチェックしていると、のそりと一ノ瀬は起き出す。 「何時?」 「まだ夜明け前だ。寝てろ」 「僕、寝たね」  うふふと笑う。 「ああ。あれ、スマホが鳴ってる。黒崎、僕の取って」 「? 鳴ってないぞ」 「ええ? 今、振動したよ?」  ──駄目だこれは。  黒崎は翌朝、一ノ瀬の家から出社すると、事務所で昨夜のうちに調べておいた書類を、あるいは申請し、あるいは取り寄せにかかった。  求めたの書類の一番遅い物が五日後に届き──それは一ノ瀬本の戸籍謄本だ。  黒崎は自分が弁護士で良かったと痛感しながら、役所の封筒を開け、目を通す。  両親、死亡。弟、死亡。  全て同日。  日付を見ると、ちょうど一ノ瀬が六歳の時だ。  ──事故か。  だとすれば痛ましい。黒崎はそれでも陽気な一ノ瀬を想ったが、頭を振ってすぐに作業に取りかかった。  ──住民票は既に入手済みだ。後は本人確認書類に一ノ瀬の免許をコピーさせて貰えば……  黒崎は全ての書類を持って、先日届いたクリアファイルにそれぞれ納めると、午後に半休を取り一ノ瀬のマンションを訪問する。 「なに、これ」  居間に通した黒崎が真面目な顔で取り出した二セットのクリアファイルを受け取って、一ノ瀬は首をかしげた。 「パートナーシップ制度の申請書類だ」 「こっちは?」 「その解消届だ」  一ノ瀬は言った。 「どういうことなの?」 「俺とパートナーになってくれ、一ノ瀬」 「恋人からまた一段進んじゃってるけど」 「一ノ瀬、お前は今ちょっと疲れている。病院へ連れて行きたいが、友人の俺ではお前の付き添いで立ち会うことも出来ない」 「待って、僕、病気なの?」 「眠れているか?」  一ノ瀬はかぶりを振った。 「回復したら、俺とのパートナーシップは、そのもうひとつの書類で好きにしてくれて良い。全て俺の部分は記入してある」 「そう……君、そこまで考えてくれてたの」  一ノ瀬は自分の目の前にてのひらをひろげる。 「僕もね、少し痩せたなとは思ってたんだ」 「一ノ瀬、どうなんだ?」  一ノ瀬は、受け取ったクリアファイルをテーブルの上に真っ直ぐに揃えて置いた。  ──突き返されるか?  黒崎が思わず身構えた時。 「不束者ですが、よろしくお願いします」  と、一ノ瀬は深々と頭を垂れて、黒崎の申し入れを受け入れたのだった。

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