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第6話

 獅堂孝司が日路礼一郎の前から完全に姿を消したのは、それからすぐのことだった。 「今、なんと?」  日路は、呼び出された事務所の応接室で聞かされたことを、もう一度、聞き返す。 「獅堂氏から、日路礼一郎との交際を解消したいと事務所に連絡が来ました」  日路は、茫然としたまま、マネージャーからの説明を受ける。  もう二度と、自分は日路とは関わらないこと。  過ごした時間は幸せだったと言うこと。 「最後に、ありがとうと伝えてくれとのことでした」  簡潔すぎる内容に、日路は理解が追いつかない。日路はすぐさま獅堂に電話を掛けた。  だが、電話は現在使われていませんという案内を繰り返すばかりだ。続けてメッセージアプリを立ち上げる。 【日路】どういうことだ、獅堂 「無駄です、メッセージアプリもブロックすると言っていました」  マネージャーの言葉に、日路は、スマートフォンを床に叩きつける。 「私の通した気持ちの代償がこれか!」  悲痛な声に、マネージャーも日路の浅はかな行動を責める言葉が出てこなかった。 「今後の身の振り方ですが、あのニュースは誤報で、獅堂氏とはただの友人関係。用意した地下アイドルとの束の間の熱愛だったことにして、彼女とふたりで記者会見に出て貰います。予定では……」 「貴方は、わたしを諦めないんじゃなかったのか、獅堂……」  割れたスマートフォンの画面を眺めながら、日路は小さな声で呟く。 「聞いていますか?」  マネージャーが声を掛けた。 「なんでもない」  日路はうつむいたまま、ただただ、自分の行動を、呪う他はなかった。       ◉  歌が好きだった。  歌って、踊るのが仕事のこの職業は、天職だと思っていた。  それが。  あの人と出会って、いささかふたりで時間を過ごすには自分の職業が面倒だなと思うようになって。  そうだ、多分。  自分はおそらく、心の何処かで、この仕事をしていなければ、と、思い初めていたのかも知れない。  今でも歌は好きだ。  踊ることも。  それなのにどうして。  声が、出ないのだろうか。       ◉  無事に記者会見が済み、日路とぽっと出の地下アイドルとの交際が騒がれ、予定通り三ヶ月後にそのアイドルとの破局を発表し。  日路は、指輪を外させられた。  なんとか日常を取り戻したのは、SNSにも話題が登らなくなった一年後のことだった。  獅堂の行方はまるで分からない。  こっそり訪ねた獅堂の家は空き家になっていたし、駆け回っていた犬たちもいない。  獅堂の名刺を頼りに勤務先へも行った。  受付で尋ねると、獅堂はただいま海外勤務に就いており、日本にはおりません、と告げられ。  自分のために獅堂が身を引いたのだと思っていた日路は、落ち着いた日常をこれ幸いと、獅堂の行方を必死に探す日々が始まった。  いつまでも獅堂を諦めない日路の様子は日を追うごとに鬼気迫るものが有り──見かねたマネージャーが、ある日、日路に言った。 「獅堂氏の立場を考えたことはありますか?」  心労に目を落ちくぼませ、やつれ果てた日路は、控え室で自分のマネージャーに諭された。 「……立場とは?」 「こうは考えられませんか? 彼が務めていたのはなかなかの大手商社でした。それが、ニュースで騒がれ、ゲイだというレッテルを貼られて、彼は、その後の昇進を考え、社会的な死を逃れたかった、という風には」 「彼はそんな人間では……!」 「無いと言い切れますか。彼の判断と身の引き方は素早く、なんの迷いもありませんでした。それこそ、未練の欠片も」 「…………」 「彼は仕事が出来る人間のようでしたし、おそらく、元の生活を選んだのでしょう」 「そんな」 「例えそうじゃなかったとしても、貴方のしていることは、彼の意思を無にする行為ではありませんか?」 「そんな……」  日路は、もう一度繰り返すと、そんなはずは……、と口の中で呟く。  その言葉が自信を伴うには、あまりにも状況が悪かった。  体力の落ちていた日路は、思考回路も落ち。    日路が再び口を開いた時。  その喉からは声が、奪われていたのだった。       ◉  『もっと、もっと声が聞きたい』  獅堂。  ベッドの中で貴方は確かにそう言ったのに。  私はまだ貴方を名前で呼んだこともなかったのに。  獅堂。  貴方は私を諦めたのか。  いや、こんな私に、嫌気がさしたのだろうな。  獅堂。  貴方のことを私も名前で呼びたいのに。  名前を叫んで、叫び回って、貴方を探したいのに。  私の喉のなんと不甲斐ないことだろうか。  獅堂。  獅堂──       ◉  日路は当面の間休養を宣言し、軽井沢の保養施設に暮らし始めた。  ドラマも、歌番組も、ニュースも。  全て今は遠い世界のことで。  クリティカルのメンバーは心配し、日路の元へ代わる代わる顔を出す。  今日は金剛寺と仲の良い矢島が、東京土産を下げて遊びに来ていた。  会話は出来ないので、日路はペンとリングノートを持ち歩く。  日路はふたりを軽井沢のあちこちへと案内した。  長逗留するうちに詳しくなったということもむろんあるが、彼らが自分を見舞いに来るので、日路が軽井沢のガイドを買って、色々と下調べした努力の結果でもあった。  その日は軽井沢の白糸の滝を見た後に、食べるのが好きなふたりをスイーツの食べ歩きに旧軽井沢銀座通りへと連れ出した。  ふたりは、何も聞かない。  日路のフェイクニュースに関しては、もちろんふたりも知っていた。  けれど、日路が本当はどんな恋をしていたのかと言うこともたずねなければ、声の調子はどうだ、と、急かすようなことも言わない。  ただ、三人顔を合わせて楽しんで。  日路にはそれがとてもありがたかった。 「あ、矢島! あれ、半分こして食わねえ?」 「それも良いが、二種類あるな。いっそふたりで両方買って、それを半分ずつ食うってのはどうだ?」  賑やかな会話が、耳に心地よい。 「日路、これ食った?」  金剛寺がたずねる。  日路はかぶりを振って、手で、いらない、と辞退した。  日路は甘い物が得意ではない。  番組では色々食のリポートはした。味も美味さも理解はするが、好んでは食べなかった。  ふたりはそれを知っているので、日路に無理強いもしない。  彼らが店内でオーダーをしている間、日路は店先で通りを眺めていた。  この日は休日。  通りはたいそうな賑わいで、通り過ぎる家族連れや、老夫婦、カップルなどを眺め── 「…………!?」  獅堂が、いた。  人混みから一つ頭の抜ける体格の良い獅堂だ。見間違える訳もない。  獅堂は、金髪の男と並んで歩いていた。  ──獅堂!  呼び止めたいのだが、声が出ない。  日路は、人混みに飛び込むと、獅堂を追って駆け出した。 「日路?! 何処行くんだ?!」  お目当てのスイーツを手に店先にでた金剛寺が、思わずその背中に叫ぶ。 「あ、馬鹿……」  矢島が金剛寺の背中を叩いた。  とたん、昼下がりの往来に、人々の声が広がり始める。 「日路?」 「クリティカルの日路だ!」 「見ろよ、日路だ!」 「マジかよ、矢島と金剛寺もいるじゃないか」 「日路さーん!」  キャーと言う黄色い歓声が方々で上がり始め、一目見ようと人々が押し寄せる。  日路は、獅堂を見失った。  ──獅堂は、海外にいるんじゃなかったのか? それとも、もうすでに戻っていた? 一緒にいたのは? 誰だ? こんな休日に、一緒に? 私と同じ金髪の……  日路は混乱し、群衆に囲まれ、身動きが取れない。 「こっちだ、日路!」  金剛寺は強引に棒立ちの日路の手を引くと、矢島とふたりで愛想を振りまきながら道をかき分け、人混みを抜ける。  通りの外れでタクシーを拾い、まだ追ってくる人々を撒くと、三人は保養所へと逃げ込んだ。 「あんなとこで名前を叫ぶやつがあるか」  矢島は呆れ顔だ。 「悪い、ついうっかり……日路を見失うかと思って慌てちまって。でも日路、どうしたんだ? 突然駆けだして」  金剛寺がたずねるも、日路は答えられない。  ノートをめくると、日路は、端正な文字で『すまなかった』と、書いた。 「知り合いを見つけたもので、声を掛けたかったが、声が出ず、やむなく後を追ったぁ?」  その続きを、矢島にも分かるよう、金剛寺が読み上げる。 「あー、そうだったのかよ。ますます悪いことした……」  金剛寺は顔の前で手を合わせた。 『気にしないでくれ』  日路は綴って、ペンを置く。 「大事な人だったんじゃないのか? 追い掛けるほどに」  矢島が、日路の顔色を覗ってたずねる。  確かに日路の顔色は悪く、先ほどから溜息を繰り返すばかりだ。  日路は逡巡し、幾度かペンを掴んでは下ろし、最後にノックしてペン先を出した。 『ずっと、探していた人だった』  金剛寺が顔を覆った。 「ごめん」   その手を日路の両肩に置き、金剛寺は背中に額をつける。  日路は、肩に置かれた金剛寺の手をぽんぽんと叩いて、弱く、笑った。       ◉  気落ちした日路が風呂に入っている間、金剛寺は情けない声で矢島に助けを求めた。 「矢島ぁ、オレ、どうしよう……」 「どうするもなにも、済んでしまったことだろう」 「なんとかその人探せないかな」 「……日路が探していたというのは、おそらく、マネージャーから概要説明があった、本当の恋人だろうな」 「あのマネージャーが余計なこと言って日路の声潰したんだろう? ぶっ飛ばしもんだ」 「彼なりのよかれが裏目に出たんだ、許してやれ。しかし、探すとなると、彼から情報を引き出さないとならんな」  矢島はちょっと考えてから、スマートフォンを手に取った。 「矢島?」  怪訝な金剛寺に、矢島は人差し指を立てて口元に当てると、電話の相手と会話を始めた。 「マネージャー? 矢島です。こんな時間にすみません。日路の恋人の事を教えて下さい」  ぎょっとする金剛寺に、矢島は頷いてみせる。 「ええ。そうです。俺に考えがありまして。日路の声を取り戻して見せます。ですから、彼の名前と、勤務先などを……ええ、確かです。ああ、今の足取りは全く分からないんですね? いえ、構いません、消息を絶った時点での情報で良いので……ええ、ええ……」  電話を切ると、矢島は日路のノートに聞き取った内容をメモすると、ページを破り取った。  大人しく見届けていた金剛寺が、心配そうに声を掛ける。  「おい、日路の声を取り戻すって、そんなこと請け負っちゃって良いのかよ」 「いいんだ。マネージャーは今一番それを負い目に感じている。利用しない手はない」 「それで、どうするんだ?」 「探すんだろ? 彼はここにいた。ここと彼の情報と何か結びつく物がないか、そこから検索する」  矢島はスマートフォンで片っ端から今知った情報を入れ検索していった。  金剛寺が固唾を呑んで見守っていると。 「ビンゴだ」 「え?」 「企業所有の保養施設──コンドミニアムが軽井沢にある。そこを利用しているとは限らないが」  矢島は金剛寺の頭をくしゃくしゃと混ぜる。 「行ってみよう」       ◉  獅堂がイタリア支店に駐在になって、同じく一年が過ぎていた。    四匹の犬を高知の田舎に預け日本を出た獅堂は、全てを忘れようと仕事に没頭した。  結果、獅堂は支社でも業績を伸ばし、イタリアの著名な有力者ともコネクションが出来て。  バカンス中に日本が見たいとイタリアの得意先に頼まれ、獅堂は彼ら幾人かを連れて、観光地を巡っていたのだ。  たまたまその日は、二手に分かれての別行動となったため、獅堂は得意先の一人と旧軽井沢銀座通りを散策していただけだったのだが。  ゲストと話し込んでいた獅堂は騒動にはまるで気づいていなかった。  騒ぎの外で、会社が所有するゲストハウスへとゲストを連れ戻る。  今夜はシェフを呼んでのホームパーティーを予定しており、獅堂はイベントコーディネーターとその準備に追われていた。  パタパタと小忙しく立ち働いていると、インターフォンが鳴る。  食材が届いたのかと獅堂が応対に出ると、ふたりの青年が、戸口に立っていた。 「獅堂さんはいらっしゃいますか?」  名指しされ、獅堂は眉を顰める。 「自分のことですが、あの、なにか?」  ──何処かで見た顔だ  獅堂はふたりの青年をしげしげと眺めた。  ふたりは顔を見合わせると、獅堂に名乗る。 「クリティカルの金剛寺と」 「矢島と申します」 「!」  気がついた獅堂が扉を閉めるよりも早く。  金剛寺のつま先がドアの隙間に滑り込んだ。 「聞いて下さい! お話があります!」 「こちらにはない、帰ってくれ」 「日路の件です! 聞いて下さい!」 「それこそ関係のない話だ、帰りたまえ君たち」 「日路は今、声が出ません!」  金剛寺の叫び声に、ぴくりと、ドアを閉める力が弱まる。  少しだけ開かれている隙間から、獅堂が声だけでたずねた。 「どういうことだ?」 「五分で良いです。お時間を下さい」  静かな声で、矢島が答える。 「……入りなさい」  獅堂は、そう言って、ドアを開けた。  なんとか話をとりつけた金剛寺と矢島は、獅堂に応接へ通される。 「それで?」 「俺たちは、知っているようで実は何も知りません」  と、矢島が切り出した。 「日路からも何も聞いてません。これは、俺達が勝手にやっていることですから、日路を責めない下さい」 「礼一郎は、何で声が出なくなったんだ? まさか事故か……」  獅堂は動揺しきって、言葉遣いも荒いままに、矢島にたずねる。 「……喉頭癌なんてことはないよな?」 「どちらでもありません。日路の声が出ない原因は、精神的なものです。言わずともおわかりですよね? 獅堂さん」 「そ……うか」  獅堂は茫然と呟く。  うすうす予想はしていた。 「俺は礼一郎を、守りたかったのに……」 「どうして過去形なんですか?」  矢島の質問に、獅堂が思わず聞き返す。 「え?」 「守り続ければ良いじゃないですか、どうして諦めるんですか?」 「諦…める……?」 「いま日路には獅堂さんが必要です!」  堪えきれずに、金剛寺が声を張り上げた。   「俺が?」    獅堂の中で、何かが噛み合った。  それはこの一年間、獅堂が自分でも何処かずれていると感じていた、気持ちの歯車だ。 「俺は」  獅堂の中に日路へ告げた言葉が駆け抜ける。 『俺はアンタを──諦めない』  あの時。  獅堂が本当に言いたかった言葉は、それではなかった。  けれど。  その言葉は、今、何より獅堂にとって── 「今、礼一郎は何処に?」  立ち上がった獅堂に、金剛寺が笑顔で答える。 「ここから車で二十分ほどです!」 「来てくれますか。獅堂さん」  獅堂はコーディネーターに電話を掛けると、二時間ほど抜けると伝えて電話を切った。 「頼む。連れて行ってくれ」  車のキーを取って戻ると、獅堂は二人を自分の車に乗せ、日路のいる保養所を目指す。  ふたりは部屋の前まで案内すると、矢島が部屋の鍵を獅堂に預けた。 「俺たちはラウンジにいます。帰られる時に、返して下さい」 「何から何まですまない」  獅堂は頭を下げる。 「こちらこそ、来て下さって感謝します」  矢島はそう応えると金剛寺も頭を下げ、ふたりはラウンジへと向かった。  深呼吸をひとつ。  獅堂はそれからドアをノックすると、鍵を開ける。  そこには。  ノックに応えようと戸口まで来ていた、日路が、立っていた。  その青い瞳は驚きに見開かれている。  獅堂は日路を、無言で力一杯抱きしめた。 「ぁ……」  日路の喉の塊が、氷のように溶けていく。 「し……ど……」  掠れた声は、羽音のように小さかったが、獅堂の耳に確かに届いた。 「すまなかった」  獅堂は、日路を痛いほど抱きしめたまま放さない。 「俺はやり方を間違えた。許してくれ」  日路は顔を上げると、獅堂の髪を撫でる。 「すこし、やせたな。獅堂」  獅堂は、泣きそうな顔で笑うと、日路の髪にキスを落とした。

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