107 / 143

第107話 ナザレ

「テツっ、来てくれたの?」 「誰だ、この野郎!」 客が怒鳴る。 「私の夫よ!」  客の男は驚いて、帰ろうとしていたタクシーを呼び止めて飛び乗った。 「もう、指名してやらないからな。」 「結構よ。二度と来なくていいわ。」 捨て台詞を残して帰って行った。  ナザレは手が震えて鍵が開けられない。 抱き寄せてドアに押し付けてキスをした。 「落ち着いて。俺はここにいるよ。」 髪を撫でて、もう一回キスをした。  ドアを開けて靴を脱ぐのももどかしくベッドに倒れ込んだ。  キャバ嬢のドレスのままのナザレが色っぽい。 「ダメだよ。もうこれを着て人に見せるなよ。 凄く素敵だ。」 「ああ、テツ、スーツが皺になるわ。」 脱ぎ捨ててもう一度抱きしめる。  翌朝、ナザレが朝食を作ってくれた。 「トーストが焼けたら急いでバターを塗るのよ、熱いうちに。今日からこれがテツの役目ね。」  そんなことが楽しい。 「美味い、ベーコンエッグ。」 「そんなの誰でも出来るわ。」  テツはいつも凍夜がミコトの目玉焼きを自慢していた気持ちが、初めて理解出来た。  愛する人の作るものは何でもご馳走なのだ。 「俺は束縛野郎なんだよ。 ナザレ、『アンジー』を辞めてくれ。 あんな客がまた寄ってくるのは耐えられない。」  ナザレはもう長い間水商売を続けて来た。高校を卒業してからずっと、だった。今は店も気に入っている。京子ママの気風の良さも。  辞めたくは無かった。 テツは古臭い男かもしれない。凍夜がミコトにホストを続けさせているのも理解できない。  色気で男の客を誘うようなキャバクラに自分の妻が働く事は許せない。  ナザレとの度重なる話し合いは、平行線だった。仕事に誇りを持って続けたいナザレ。  毎晩ナザレの部屋に入り浸りのテツだが、自分が女を養うのが当たり前だと思っている。  ホストの給料日、現金で受け取る給料を封も切らずにナザレに渡した。 「これで生活してくれ。贅沢しなければ充分だと思うよ。仕事、早く辞めてくれ。」 「何?これ?私を買うの?」 テツは愕然とした。ナザレを抱きしめてくちづけをしようとして拒否された。 「何考えてるの?私は縛られるのがイヤなのよ。 誰とでも、寝たい時に寝るわ。」

ともだちにシェアしよう!