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第4話 一年前の話・中編
あまり人間に興味がなかった。いや人間に興味がないというよりも、人間関係の構築に興味がなかった。誰かといるより、一人で音楽を聞いたり、読書をしている方が好きだった。
それなりに友人はいたが、卒業したらあっという間に疎遠になった。寂しいと思う事はあったが、その寂しさを消すために誰かとつるむ方が何倍も疲れた。
大学に入ってなんとなく顔見知りになって話す事はあっても、それ以上に深い仲になることはなかった。
自分のセクシャリティに気づいてからはますますそうなった。
友人関係も希薄だが、誰かと付き合いたいとかそう思ったことがあまりない。そもそも付き合ったりとかキスをしたりとかその先だって自分にはあり得ないのだと恋愛自体に興味を持たないようにしてきた。
だから稲川夕大にとって川﨑陽也が自分の人生に登場したことは嵐のような奇跡だったのだ。
それは陽也も同じだった。
「おかえり」
午後22時半頃。陽也は夕大がインターホンを鳴らすやいなやドアを開けた。もう足音で夕大が来るのを察知していた。
「こんばんは…」
ただいまとは言ってくれないが、夕大はそうやって迎えるといつも照れたような顔をする。
そろそろハグくらいしても怒らなそう、と思いつつ堪える。夕大とはまだ付き合ってはない。付き合ってはないが、ほとんど付き合ってると言っても過言ではあるまい、という関係だと陽也は思っている。
「もう夜寒いね。入って入って」
「そうですね。少し前までまだ夏って感じだったのに…お邪魔します」
陽也と夕大が出会ってお互いのセクシャリティを知ってしまってから1ヶ月が経った。もう10月も終わりである。
あの日から夕大はバイトや大学が終わった後に一人で住んでいる陽也の家にしょっちゅう遊びに行っていた。週に2回ほどは泊まってもいた。陽也の家は大学にも店にも徒歩20分くらいの1Kのアパートに住んでいた。
「あの、川﨑さん。これうちの親が持ってけって…」
恥ずかしそうにリュックから取り出したのは2キロの米だった。
「え!?米!?」
「……すみません」
夕大はすぐに謝る癖があった。それが可愛いと陽也は思う。
「ううん、めっちゃ嬉しー!米めっちゃ食べるもん」
「自炊とかします…?」
バイト先でお世話になってる人と仲良くなってよく遊んでいると言うと、今まで特定の友人の影がなかった夕大の親はそれを喜んだ。
たびたびインスタントの味噌汁とかレトルトのカレーとか持たされ、その生活感が出すぎた気遣いに辟易したが、今回は米まで持たされた。すごく重かったし何より恥ずかしかった。
「うん、するよー。手作り嫌がる人もいるから出したことなかったけどほとんど自炊。今度作ってあげようか?」
「………え、いいんですか」
夕大はあまり喜んでいるように見えなかったが、陽也はこの1ヶ月で彼が本当に嬉しい時はかえってテンションが低くなるという事に気づいた。
「あとこれは俺から」
「やったービールだー飲も飲もー!」
陽也はビニール袋ごと夕大の手を掴んで奥に連れて行った。
「よし、じゃあクソ映画品評会始めまーす!」
といってノートパソコンを立ち上げると動画配信アプリを開いた。夕大が来るようになって安い折り畳み式の座椅子を一つ増やした。夕大が来るとさりげなく、できるだけ近くに映画館の座席のように二つ並べておく。
こうして夜な夜ないろいろな動画を見るのが二人で会った時のルーティンになっていた。
陽也と夕大は音楽の趣味も合ったが映画や漫画の趣味も合っていた。性格は似ていないのに価値観や考え方の共通点も多かった。
夕大は初めてセクシャリティを理解し合い、意気投合できる友人に出会って純粋に楽しいと思っていたが、陽也は下心半分で夕大と過ごしていた。
陽也が初めて夕大と会った時の印象はミステリアスで可愛い。だった。自分のような明るい人間が苦手なのが瞬時に分かった。陽也は陽気な方ではあったが惹かれるのはいつも静かな人だった。心を開かせたい。心の内側を見てみたい。という気持ちにさせられてしまうのだ。
だから、夕大にアダルト動画を見られた時は血の気が引いたが、今では見られてよかったとまで思っていた。二人の共通点であるアーティストにはもう足を向けて寝られないとさえ思った。
この二つがなかったから夕大と今こんなふうに過ごせていないだろう。
それほど陽也は一緒に過ごすうちに夕大に惚れ込んでしまったのだが、まずは友人関係が確固たるものになってから先に進みたいと、想いを隠しつつ今の関係を大事に温めていた。
許されるならすぐにでも夕大を押し倒したい。触れたい。キスをしたい。その先も。
陽也は割と体の関係を持つことに抵抗がない。だけど遊びでセックスをしたいとはあまり思えなかった。ちゃんと付き合ってる人と関係を持ちたいと思っていたら随分ご無沙汰になってしまっていた。
そんなところにアプリの力でもなく同じ性指向の人たちが集う場でもなく、偶然にも夕大のような好みの青年に出会えたのはまさに運命、神様のお導き、夕大は天使。くらいに一人で盛り上がっていたのである。
あっという間に深夜になって布団を敷いた。陽也は夕大に布団を貸していた。夕大に布団を貸している時はリクライニングの座椅子を180度に倒して布団代わりにして寝ていた。
夕大に布団を貸していたのは親切心のみではなく、自分の布団を使って欲しいという邪心もあった。
陽也はいつも夕大の寝息が聞こえるまでドキドキして寝付けなかった。今日もぼーっと天井を見つめながら夕大の気配に耳を澄ましていたら唐突に夕大が口を開いた。
「あの...川﨑さんって彼氏とかいるんですか」
「んーー?今はいないよー」
と半分寝ていた風に答えながら陽也はやっと来た!!と心の中でガッツポーズを作っていた。
わざと避けているのではないかと思うほどに夕大とは色恋沙汰の話にはならなかった。おそらく夕大には恋人のような人間はいない。それどころか友人付き合いもあまりないようだった。
だから変に押してしまうよりはこっちに引き込もうとしていたのだ。
陽也はこういう話題になったら絶対に言おうと思っていたセリフを言った。もう脳内で何度言ったか分からない。
「稲川くんみたいな子、俺タイプだけどな」
陽也はごろっと向きを変えて夕大を見た。夕大もこっちを見ていた。暗闇の中で二人は目が合う。暗くても夕大の目がびっくりしたように揺れたのが分かった。
「え」
夕大が固まってしまった。
「…………」
そして黙ってしまった。
「ごめん、変なこと言っちゃった?」
しまった、少し早まったか?と陽也が内心オロオロしていると
「ううん、嬉しいです」
と夕大は低いトーンで答えた。陽也は「おっ」と思った。陽也は嬉しい時はテンションを落として照れ隠しをする。
「っていうか、稲川くんは?」
もうここまで来たらもう一押しだとわかっていた。多分夕大は自分に好意を持ってくれている。じゃなきゃこんな頻繁に家に来ない。こんなに懐いてくれない。夕大の性分はなんとなく分かってきていた。
「え?」
「彼氏とかいる?」
ほとんど告白だった。これで「いない」と答えてもらってじゃあ付き合う?という流れになりたい。と陽也は布団の中で心臓を抑えた。緊張より興奮していた。もしかして今夜、行けるとこまで行けてしまうのではないか?と。
「彼氏っていうか、恋愛したことない…」
と夕大は消え入りそうな声で呟いた。
「そうなの!?」
陽也は思わずガバっと起きてしまった。
「じゃあ何もしたことないの?」
陽也は自分の寝床から抜け出し四つん這いになると、犬のように横になっている夕大の枕元までにじりよった。夕大は少し慄くように様に布団の中で首をすくめた。
「ないです」
夕大はかろうじて聞き取れる声量でぼそりと答えた。経験が何もないのを恥ずかしがっているようだった。
「興味ないかんじ?」
「よく分からないです」
「じゃあ今まで好きになった人は?」
「いないです…」
「彼氏欲しいとか思わないの?」
「欲しくなくはないですけど…あんまり考えたことなくて…」
「お、俺とか!ど、どう?」
あ、言っちゃった。と陽也がハッとした。
「ふっふふ」
突然夕大が笑い出した。夕大が笑いを堪えられないというように笑うのはあまり見られない光景である。
「え、なんか面白かった!?」
「あははは、いや、必死すぎて」
必死すぎたようだ。
「やめてー!恥ずかしいー!」
もしかしてからわれていたのか!?と陽也は頭を抱えた。全部嘘!?全部演技!?俺言わされた?乗せられた!?と陽也は混乱した。
夕大はそんなおふざけをするような人間に思えなかったが、もしかしたらもう最初から自分を陥れるために近づいたのではないかとすら思いパニックになっていた。
「すみませ、ふふっ。だって川﨑さんて、」
夕大は布団の中で腹を抱えて笑っている。
「俺のことめっちゃ好きじゃないですか」
ひぃひぃ笑う夕大を可愛いと思いつつ拗ねた気持ちになる。
「なんだ。気づいてたの?いつから?タチわるー」
「気づいてないですよ。今知りました。好意持ってくれてたのはなんとなく分かってたけど、それが友達としてかとか、どれくらい好きかとかは分からなかったです」
「それで?分かってくれた?キスしたいくらいには好きだけど?」
陽也は寝ている夕大に顔を近づけて言った。
「じゃあします…?」
と上目遣いに言われ、ドンっと胸を突かれたような衝撃が陽也を襲った。
「ねえ恋愛したことないとか絶対嘘でしょー!」
と頭を抱えて大げさに陽也は転がった。
「本当ですけど」
「だって俺のこと手のひらで転がしすぎ!」
「転がしてないですよ。川﨑さんが勝手に転がってるだけでしょ」
はにかんだように夕大が笑う。夕大は時々こういう生意気な物言いをしたり辛辣なツッコミをぼそっと言う。それが陽也は面白くて好きだった。喋ってて楽しいし、可愛い。
「無理、可愛い」
陽也は再度夕大にすり寄った。今度は夕大も逃げなかった。
「すっごい可愛い」
陽也は夕大の頬に手を添えると唇を押し付けた。夕大も陽也の頭に手を回して押さえつけた。
陽也はちゅ、ちゅと音を立てて夕大の唇を吸うように触れた。そのうち止められなくなって陽也は舌で夕大の唇を舐めた。夕大は薄く口を開けて陽也の舌を迎え入れてくれた。唾液と息が混ざり合う。
夕大は本当にキスもしたことがなかったようだ。ぎこちない動きで陽也の唇と舌を受け止めてくれた。緊張していたのか体が強張っていた。
その強張りを解きたい。柔らかくしてみたい。夕大が隠しているものを、誰にも見せたことがないものがあるなら自分が見てみたい。
陽也は人の心の内側を見てみたいと思ってしまう。だから夕大みたいに内向的な人に惹かれてしまう。そういう人が自分に心を開いてくれる瞬間がたまらなく好きだった。
体だって同じだ。
「わっ」
陽也はキスをしながら、夕大のシャツの中に手を差し入れた。胸のあたりに手を滑らすと夕大はびくっと体を震わせた。
「はっ、」
陽也から漏れる息が熱っぽくなる。夕大をもっと知りたい。夕大を暴きたい。唇を夕大の首筋に移した。
「ちょ、ちょっと、待って。俺、そういうつもりじゃ…」
夕大にやんわりと肩口を押され、陽也はハッと我に返る。慌てて陽也は夕大から飛び退いた。
「わーーーーーっっ、ごめん!!」
陽也は土下座の体勢になって、今にも床に穴を空けそうなほど頭をこすりつけた。
「ごめんなさい、調子乗りました!!」
「こちらこそ…すみません…」
夕大は体を起こすと気まずそうにつぶやいた。
「あ、謝らないでよ!急にごめんね。そうだよね、初めてなんだもんね…」
陽也はいたたまれない気持ちになる。本当についつい手が出てしまった。今まで付き合った人は全員年上で自分よりも経験豊富だったせいか即日そういう関係になっていたのでそのノリでいってしまった。
「すみません…」
「だから謝らないでってば。あのさ、順番めちゃくちゃでごめんなんだけど、俺と付き合ってくれる?」
お願い神様、今ので夕大を怖がらせてませんようにと陽也は数秒間で100回ほど願った。
「俺付き合うってよくわからないんですけど、川﨑さんとなら関係を進めてみたいって思いました…そういう気持ちでもいいですか?」
夕大は照れているのか最後は下を向いてしまった。
「ほんとー!?」
陽也はばんざーいと喜ぼうとしたが、
「川﨑さんってすぐ寝ちゃうタイプなんですか?俺、何もしたことないからよく分かんなくて……」
ふいに、とんでもない事を聞かれた。ぎくっとして陽也は慌てて首と手を振る。
「キスまで。キスまでしかしない!!」
今は。と心の中で付け足す。
「キスも嫌だったらしないよ」
それは本当だった。嫌がることはしない、無理やりもだめ、というのは陽也の当然の信条だった。
「それは嫌じゃないです…」
夕大は小さい声でぼそっと言う。はぁ〜〜可愛い〜〜と陽也は有頂天になる。
「その先はおいおいで…」
でへへとだらしなく笑う陽也に夕大は複雑に眉を顰めた。
「おいおい……」
という感じで二人は秋も深まった頃に交際を始めたのだった。
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