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第8話 さわらないで、と
※ハル視点です
最後にしてから(失敗したけど)半月くらいが経ったが夕はやたら俺に触ってくるようになった。元々、夕はスキンシップが意外と多い。性欲は薄いくせに頻繁にすり寄ってきたり、ハグしてきたり、頭を撫でてきたりする。
俺はそういう行為も性的な気持ちありきなのだが、夕のそれは単に犬とか猫をモフるのと同等の気持ちなのだと最近気づいてきた。
それとは別に、罪滅ぼしのつもりなのか何なのかよく分からないが、ご飯を作っている時や歯を磨いてる時もベタベタしてくるし、寝る時もよく布団に潜り込んでくる。果てには風呂まで一緒に入りたがる時もあったし、頼めば口で抜いてくれる時もあった。
そういう時は「もしかして最後までしていいの?」と期待をこめて聞いてみるが「そうじゃない」とするりと逃げられてしまう。せめて一緒に触り合ったりしたいのに、なぜかあれ以来俺には何もさせてくれなくなってしまった。つまり俺は完全に夕が感じたりイクところを見せてもらえなくなってしまったのだ。
一方的にされるのは気持ち良いけど、なんだか一人でしてるみたいで時々虚しい。夕が俺にしてくれる時はしたくてしているというよりは、義務でやっている感がありありと伝わってきて余計にしんどくなっていた。
「何作ってるの?」
日曜日の夕方、俺がひき肉を捏ねていると夕がくっついて肩に顔をのせてくる。月曜から土曜まで夕が帰ってくるのはほとんど夜なので、日曜日は夕方から一緒にいられる貴重な日だ。
「ハンバーグ。こねてるの。あ、今手離せないからね」
と手が使えない代わりに夕のほっぺに頭をぐりぐりする。
「洗濯物全部しまい終わったけど他に何かやることある?」
「うーん、特にないかなー」
と言うと夕は俺の顔に手を添えて、夕の顔の方に向かせると不意にキスをしてきた。
夕がハグしてきたりキスしてきたりするのは嬉しいけども、これ以上は絶対にできないと分かっているとなかなか辛いものがある。
「ねー、なんで最近そんなに甘えたなのー?」
「そうかな…」
「そうだよ。めちゃくちゃキスしてきたりくっついてくるじゃん」
「あんまり自覚なか」
「でもエッチは嫌なんだ?」
夕は俺からパッと離れた。
あ。やば。嫌味っぽいこと言っちゃった。というか嫌味だなこれ。ひっそりと鬱憤が溜まっていた俺は咄嗟に謝れず、つい夕の出方を観察してしまった。
「………」
夕は何も答えなかった。俺はハンバーグのタネを左手右手と移動させて空気を抜きながらハンバーグを成形させていく。ペタペタペタペタと間の抜けた音が妙に響く。夕は相変わらず黙っている。だめだ、沈黙に耐えられない。
「ごめん、嫌なこと言っちゃった」
「ううん」
そのまま自室に引っ込むかなと思ったけれど、夕は半歩後ろに突っ立ったままだ。
「もうやることないから大丈夫だよー」
俺は暗にどっか行ってと告げたつもりだった。俺、なんかイライラしてる。できれば一人にして欲しい。と思っているのに夕はそこから動かなかった。
「…怒ってる?」
伺うように夕が聞いてくる。俺はあんまり気持ちに浮き沈みがなくて、不機嫌になることがほぼない。基本的に能天気なので神経質な人に怒られもするが好かれやすくもあった。それが自分の長所だと自負してきた。だからこういう俺を見るのは夕は初めてだったんじゃないかと思う。
「怒ってないよ」
ついそっけない声を出してしまった。
「そう…」
しゅんとした声を出す夕に心がうっ、となる。やっぱり俺は八つ当たりとか機嫌の悪さを誰かに出すの苦手だ。罪悪感に耐えられない。
「ごめん、ちょっとイライラしてた…かも。でも、もう大丈夫」
俺はフライパンに油をひいた。そして火をつける。フライパンが熱せられると、ハンバーグのタネを放り込んだ。ジュワァという軽快な音が神妙な空気の中に流れる。このまま部屋に戻ってくれと願ったが夕はまだ退かなかった。なんだか夕のそういうタイミングの悪さというか空気の読めなさのようなものが今日は妙に鼻につく。
「ハルはさ……その……いれないセックスはセックスじゃないの…?」
夕が背後から問いかける。パチパチパチという油が跳ねる音。肉が焼ける美味しい匂い。換気扇に吸い込まれていく煙。沈んでしまった太陽。夜がくる。夕ご飯の時間だ。2人でご飯を食べられるこの時間を俺はいつも心待ちにしていた。
突然ピピーっという電子音が聞こえて、俺と夕は二人でびくっと肩を震わせた。米が炊けたらしい。いつもなら笑ってしまうところなのに、しーんとしたままだ。
「そんなこと聞いてどうするの」
俺はハンバーグのタネをフライ返しでひっくり返しながら答えた。再びジュワっと美味しい音が鳴る。さらに水を入れて蓋をする。蒸し焼きにしている間に鍋に水を入れて味噌汁の準備をする。
「どうって…聞いてみただけ。俺は、ハルとなんとなく触りあってるだけで満足なんだけど…」
夕が俺の後ろでぼそぼそと呟いている。そんなこと言葉にされなくてもさすがにもう分かってる。分かってないと思っているんだろうか。そして俺が今までそういう夕を『じゃあ仕方ないよね』と受け入れてきたことも分かってくれているんだろうか、と思う。
いつもだったら夕と向き合う。いつもだったら夕に優しく言葉をかける。気まずい雰囲気になっても冗談を言ったり、すぐに謝ったりフォローをしていた。俺は俺の欲求となんとか折り合いをつけて夕を怖がらせたり傷つける事は言わないように、しないように頑張ってきた。それが当たり前のことだった。でも今日はなんだか頑張れなかった。
こんなことを言ったら夕が辛くなるのは分かってた。夕の求める返答じゃないのも分かってた。分かってたのに俺は明確な意思をもって夕を傷つけてでも自分のエゴを言いたいと思ってしまった。
「俺は全然、満足じゃないんだけど」
煮立った鍋に顆粒だしと料理酒を入れて、サイコロ型に切った豆腐を入れる。豆腐があったまったら味噌を溶いて味噌汁は完成だ。ハンバーグを一つ割ってみて生焼けじゃないか確認する。大丈夫だった。ちゃんと焼けていた。
「ごはん、食べようか」
振り向くと夕は叱られた子供のようにじっと下を向いていた。シャツの裾をぎゅっと掴んでいた。背の高い夕が小さく見えるのは背中を丸めているからだけじゃないだろう。
「うん」
夕は返事をしてくれた。俺は夕が気まずそうに佇む様子を見てぐさぐさと心がえぐられる。お互いのために修復した方がいいのは分かってる。
でももう頑張るの疲れちゃった。
地獄みたいな空気の中、会話もないままもそもそご飯を食べた。なんだか味もしなけば噛むのも飲み込むのも疲れた。いつもなら夕がご飯の感想を一言ぽつりと言ってくれる。凝った料理も手抜きの料理も『こんなの作れてすごいね』『俺こういうの好きだよ』とか言ってくれていた。常に美味しかったよありがとうと抑揚のないトーンで言ってくれていた。俺はそれが毎日嬉しかった。今日はそれがなかった。
セックスができない同棲生活で、一緒にご飯を食べるのが俺の唯一の癒しだったのに、なんだか今日はそれすらも苦痛になってしまった。夕と出会って一年、付き合い始めてもうすぐ一年。一人になりたいと初めて思った。
夕と暮らそうと決めた時、俺は2Kの家を借りて一つはリビング、一つは二人の寝室という提案をしたが、夕は断固として寝室は別にしたい、それぞれの部屋が欲しいと譲らなかった。今は正解だったと思う。
朝、簡単な朝ごはんの支度をしていると夕が階下にある自室から上がってきた。
「あっ、えっと」
夕が早めに起きてくるのは珍しかったので、心の準備ができていなかった俺はつい口籠る。
「おはよう」
夕はしれっと挨拶してくる。昨日は死にそうな顔をしていたが、今朝は無表情すぎて何を考えているのか分からない。怒っているのか悲しんでいるのかも全然分からない。昨日は会話もないままごちそうさまになり、会話もないまま食器を洗ってそのまま無言で解散した。
「うん、おはよう。あ、トースト食べる?」
普段、夕は朝ごはんを食べないので(というか俺が起きる時間に起きていない)、俺は食パンの袋をガサゴソ開けて一枚取り出そうとした時だった。
「ハル…ごめん。昨日俺…」
夕はぎゅうと俺に抱きついて、何かを話そうとしてきた。でも俺は反射的に夕の腕を掴んで引き剥がしてしまった。
夕がびっくりした目で見てくる。それはそうだろう。夕がこういうふうにスキンシップを求めてきた時、俺は一度も拒否ったことがない。
「え……」
夕が混乱した声を出す。俺も自分が分からなかった。でも俺はこの時初めて嬉しくないと思ってしまったのだ。夕に触れられるのが嬉しくない。嫌だ。やめて。と思ってしまった。
「ごめん…今あんまり…くっつかれるのしんどい」
「……」
そしてずるい、と思ってしまった。夕ばっかりずるい。ひどい。と思ってしまった。だって、俺は何も満たされない。夕と違って俺は触り合ってても満ちない。
「だって最後までしたくなっちゃうんだもん」
「うん」
そんなのは公平じゃないじゃないか。と思ってしまった。俺だってしたいことをしたい。されたいことをされたい。言いたいことを言って、言われたいことを言われたい。それが性的な事だとどうして我慢しない方が悪いみたいな風潮になるのだろう。
俺の性欲が蔑ろにされたまま、夕だけが満ち足りた生活をしているなんて恋人としてフェアじゃないなんて思ってしまったのだ。
「ちょっと…落ち着くまであんまり俺にくっつかないで…」
「うん。分かった」
夕は見るからにしょんぼりした様子で俺から離れた。表面上は全然平気にしてたけど、しっかり傷ついているのが俺には分かった。
罪悪感と共に少し胸がスッキリするような気持ちを知ってしまった。
そっと離れて、とぼとぼ階段を下っていく夕の背中を見てざまあみろ、と意地悪な悪態をつきそうになった。でもその次の瞬間に俺に突き放された夕が可哀想で泣きたくなった。
俺はこんなに性格悪くなかったはずだ。こんなあからさまに夕を傷つけて平気でなんていられなかったはずだ。こんなにメンタル弱くなかったし、こんなに病み方しなかった。
俺、悪い方に変わっていってる。
嘘でしょ。夕は俺の運命の人だと思ったのに。
俺は夕のために開けた食パンの袋を再び閉じる。あ、夕は結局、朝ごはん食べないのかな。食べるわけないか…。それより早く自分のご飯食べて支度してバイト行かないと。思考が平常心を取り戻そうと夕以外の事を考えようとする。
また味がしない朝ごはんを食べる。トーストは使い古したスポンジを食べているようだったしコーヒーは泥水みたいだった。
使った食器を流しに放り投げて着替える。10月も半ばで朝は冷えている。半袖のカットソーとニットのカーディガンを羽織る。
洗顔して歯を磨いて、髪を整える。身支度が整ったらボディバッグを肩にかけて、スニーカーを履いて外に出た。行ってきますも言えなかった。
外はしんみりと冷たかった。どこからともなく金木犀の匂いがする。今日のバイト先は駅前にあるので歩いて行ける。途中で散歩中の犬にすれ違う。いつもの見慣れた景色を見ながら俺は徐々に夕の事を考え出した。
夕も不安なんだろう。俺たちの関係が歪んできているのを感じているのだろう。だから急にスキンシップが増えたり試すようなことを言ってしまったんだろう。
今、夕が別れようと言ってきたら俺は承諾してしまうかもしれない。夕は俺と別れたらどういう人生を送るんだろう。挿入なしのセックスだけで過ごしているカップルなんていっぱいいる。そういう人を見つけて幸せに暮らすかもしれない。
でも夕は自分から彼氏なんて探さないだろうな。そもそも恋愛に興味ないって言ってたしな。俺がいなくなったら一生一人で過ごす気がする。友達もあんまりいないのに。
ダメだ。俺は夕から離れられない。自分からは絶対に手を離せない。壊れかけてるの分かってるのに。俺が壊しているのに。夕を一人にさせたくない。夕のそばにいたい。
これ以上先に進めないのに、それでも俺は夕がすきだった。
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