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次の瞬間には、雲雀はけろりとしていつもの可愛らしい表情を作っていた。 「ねえ、今日は何処でしよっか?」 リビング、キッチン、バスルーム、ベランダ、廊下…と候補を並べたてる。父親と同世代かそれ以上の男に媚を売るための、少したどたどしい話し方は癖になっているようだった。しかし片手で数えられるだけしか年の差のない日出人には、取り立てて魅力的には映らない。 「ここでいい。」 「いつもそう言うんだから。ヒデ、つまんないよー。」 足繁く通う客、ひいては命綱を離すまいと、どんな要望も拒まない。それは新生児が近付いてきた相手の指をしっかりと握る掌握反射にも似た、生きるための術だ。 そうしてあらゆる形で「パパ」に求められながら過ごす雲雀にとって、夜中に呼び付けようとも応じ、それでいて何も求めて来ない日出人への対応は他の誰とも異なる。 「ホントに来たんだ」などとからかってみたり、顔も知らない相手から受け売りの中身の無い話をしてみたり、形にならない感情を無償の愛としてただ示す事しかできずにいる。 「じゃあ、せめてカーテンぐらい開けてあげる。夜景が綺麗なんだ。」 「景色なんて毎日見てるんじゃねえのか。」 「ヒデは毎日ここに来ないでしょ。」 唐突に、ふふ、と笑いを漏らす日出人。 「この会話…前にもした気がする。」 雲雀はその言葉にきょとんとした後、少し顎を引き、唇を尖らせる。 「えっち。」 「ああ?」 日出人はすぐに笑みを消し、不機嫌そうな表情になって聞き返した。 「思い出し笑いする人はえっちなんだってパパが言ってた。」 「違う。思い出したから、笑っただけだ。」 言い訳がましい日出人に背中を見せるような体勢になった雲雀が、ベッドの上からサイドテーブルの下を覗き込む。細いうなじにまでびっしりとタトゥーが刻まれ、黒ずんだ塊が動いているようだ。 「えっちな人、すきだよ。ボクは。」 こもった声で言い、細い腕を伸ばし、テーブルの下のスイッチを操作する。 カーテンレールに組み込まれた装置が動く機械的な音がした。厚みのある生地で作られた特注サイズのカーテンがゆっくりと開いていく。 今宵の月は、もう満月とは言えない。上る時間も遅くなり、右側が欠け始めていた。この形は()待つ()(づき)とも呼ばれ、古くは月が出るのを臥して待っていたという。周りはぼんやりと薄い雲の笠をかぶっていた。 天井から床まで繋がる巨大な窓は、そんな月を浮かべた曇りの夜空に代わって無数の星をぶちまけたような夜景を、眼下に湛えている筈だ。 「ねっ!綺麗でしょ?」 雲雀は軽やかにそう言ってベッドから下りると、窓の傍まで歩き、やや蒼っぽい夜空を背にして立ってみせた。その中心は子供のままのように小さく、申し訳程度に垂れ下がっている。恥じらいという言葉すら知らない無秩序な裸に、各所のピアスが揺れて輝く。 「怖がるパパも居るけどね。ふざけて窓辺に連れていこうとしたらオシオキされちゃう。」 得意げな表情とは裏腹、よく磨かれたガラスは間接照明に照らされた室内を反射してしまい、肝心の景色はよく見えなかった。 日出人はベッドに腰を下ろし、両手を後ろ手に突いたまま、立ち上がろうともしない。片脚をもう片方の膝に乗せ、興味無さげに首を傾げた。 あからさまな態度に、雲雀はおもしろくなさそうに唇を尖らせる。 「高い所が苦手ってわけでもないクセにさ。」 特に高所での作業を担う日出人の職業は、鳶職とも呼ばれる。それを初めて聞いた時、幼馴染が鳶になったと、鳥の名を持つ雲雀は面白がったものだ。 「そうだな、単に興味が無いだけだ。」 端的な返答に、肩を竦め、やれやれと首を振る雲雀。価値の分からない者はこれだから困るのだ、とでも言いたげな、男性客が時折見せる仕草だった。 「電気、消してみて。」 わざとらしく顎を上げ、サイドテーブルを指差す。 日出人は脚を組んだまま姿勢を下げ、取り付けられた幾つかのスイッチを続けざまに押した。 部屋中の照明が消え、何処からともなく音楽が流れ出し、華奢な体がシルエットに変わる。 壁一面をくり抜いたような窓から射し込んでくる月明かりと外の明るみは、そのシルエットの輪郭と、広い床を照らした。 得意げに腕を組み、訊ねてくるのが聞こえる。 「これを見ても同じことが言える?」 防音性と断熱性に優れたこの寝室は、やはり一番長く使われているようだ。 天井に取り付けられたスピーカーから流れる、高音質の洒落たジャズ。窓に浮かび上がる月ばかりか、空を照らし返すようなきらきらしい夜景。目も眩むような額を注ぎ込まれ、服を着せる事さえ惜しまれるほど美しい少年。 「女神サマみたいでしょ。今のボク。」 神話伝説に、仙薬を盗んで月に逃げた姮娥(こうが)という女神が登場する。とある「パパ」は文献の研究者として、 雲雀の美しさを女神と評したと言うのだ。月を背にしたこの姿は、彼らの目には神々しくさえ映るらしい。 姮娥は薬を飲んだために不老不死となり、月にある宮殿で孤独に暮らした、あるいはヒキガエルになってしまったとも伝えられている。 宮殿のような高級マンションの、月にも届く高層階にひとりで暮らす生活。投薬や手術で男性らしさを削ぎ、第二次性徴さえも止めさせたような、作り上げられたその幼さはまるで不老不死。べっとりと刻まれる暗い色とピアスに白い肌が覆われた様相は、さしずめヒキガエルといったところか。 学のない雲雀がそんな事まで理解し、他人に説明できる筈は勿論なく、同じく日出人の心も、やはり動く事はなかった。突然鳴り響いたサクソフォーンの音に驚いた心臓が少し早くなった程度だ。たとえ有名な奏者が、音楽に造詣の深い「パパ」からの依頼で、雲雀の為に書き下ろした曲だったとしても知る由はない。 暗さに目が、音量にも耳が慣れ、お互いの姿がまた見えるようになると、雲雀はがっくりと肩を落とした。 「…やっぱり興味無いんだね。」 今日はちょっとばかり曇っているが、晴れていればもっと遠くにある港の光まで見えるのだと語る姿を、日出人はしっかりと見つめていた。 「そもそも、オレはお前しか見てないんだけどな。」 何の気なしに放った言葉が、思わぬ形で相手の琴線に触れるというのは、会話をしていればままある事だ。 雲雀が突然、んーっ!と喉に詰まるような高い声を上げ、顔を両手で覆う。 「ホントにずるいよヒデ!そんなのいつの間に覚えたの?」 箸より重い物など持った事すらないような、白く真っ直ぐな指の隙間を開き、両目を覗かせる。恥じらいもなく窓辺に立つ一方で、相手からの言葉ひとつで耳まで赤面していた。 照れたり叫んだり、忙しない雲雀とは対照的に、日出人は少し困惑すらしてしまう。 「普通のことを言っただけだろ。」 「やだー!ヒデのクセに!ボクすっごいキュンとしちゃった!」 高い声で叫んだかと思うと、日出人に駆け寄り、抱きつく雲雀。夜空を背に、勢いよく胸に飛び込む様は、さながら夜目の利かない中で宙を舞う小鳥だった。 「何言ってんだ?」 日出人も反射的に腕を回し、抱き留めながら聞き返した。雲雀は子猫のように耳や頬を擦り付けてくるだけで、まともに取り合おうとしない。 人肌以上に熱くなった痩躯の抱き心地は、肉が薄いと言えど普段軍手越しに触れる建材などとはまるで違う。 心地良さと戸惑いが交差するこの関係を、肌に当たる小さな金属の僅かな冷たさと鋭さが、一筋縄ではいかなくさせる。 しばらくすると、雲雀は何かを思い出したように体を離し、いそいそとベッドから下りた。 照明と同様、壁や床からなめらかに反射した月明かりが、薄暗い中で見下ろしてくる青い虹彩に鈍い光を宿している。胸元やへその小さな宝石を繋げたピアスと同じ輝きを放っていた。 「いいよ…そーゆーヒデが好きだもん。」 小さく呟いた時、その目はまた先ほどのように熱を帯びていた。 ベッドに倒れた体勢の日出人が何を言い返す前に、慣れた動きで床に膝を突くと、相手の股間に顔を埋め、小さな口に含んでいく。 日出人は、同性愛者ではない。 「パパ」と呼ばれる男性客は、妻帯者がほとんどだ。そこには、大恋愛の末に結ばれた結果でもあれば、社会的地位を守るために必要だったに過ぎなかった場合もあるだろう。そして、妻には無いものを求めるようにして、少年すなわち同性であると認識していながら雲雀の元へ通っているという。 日出人は仰向けのまま下方へ手を伸ばし、そこで水音を立てて上下している小さな頭に添えた。短く整えられた金髪を、梳くように撫でてやる。すると雲雀は動きを止めず、三日月形に曲がった目で嬉しそうに見上げてくる。短い笑い声が喉の奥を震わせた。 何かが違えば、例えば同じものを持っていなければ、あるいは目の前に膝を突くこの健気な少年と同じ気持ちになれたかも知れない。何度そう思っただろうか。 日出人が雲雀に応じるのは、そうする事を求められているからに過ぎなかった。 幼馴染の雲雀を大切に思うからこそ彼の願いを叶えてやりたいが、彼が本当に望んでいる、恋愛感情を抱く事はできない。もちろん劣情を催す事も、こうして直接的な刺激を与えられてからでなくては抱く事もままならない。いくら相手が、月明かりの下で女神と呼ばれた高級男娼だとしてもだ。 それでいて、雲雀からの連絡は今の二人が時間を共に過ごせる唯一の手段だった。場違いな逢引のような形でも、幼い頃からは考えられないような関係を迫られても、日出人は拒まない。無力な自分しか頼れない、更に無力な籠の鳥への憐れみまでも含んだ、複雑な関係からくる複雑な感情は、やはり一筋縄ではいかなかった。 しつこいほど真っ直ぐに口にする、その言葉の通りに受け取れば、雲雀は間違いなく日出人に惹かれている。どうしてそうなったのかは、二人にも分からなかった。 幼少期から抱いていた憧れが、性徴とともに相手を求めたい意識に変わっただけなのか。男性客に体を求められるうち、自身もそうなっていったのか。もっともそれを知ったところで、今更何が変わる事もないのだが。 それでも雲雀は時折こうして、籠の中へと鳶を誘う。 日出人はやがて考えるのを止め、先端から裏筋にかけて滑る舌に開いたピアスの感覚に顔を顰めた。

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