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金曜日の夜①

 自分の呼吸音で周囲の音なんて聞こえない。  誰かに呼び止められた気がするし、そうでもない気がする。  とにかく、今の俺はそんな事気にする余裕なんてなかった。  知らない道を全速力で駆け抜けて、左右に分かれた道は躊躇する事なく足の近い方へと駆け込む。  俺はただ知らない道に奥へ奥へ誘い込まれるように走っていく。  「ねぇ君今ヒマ?」    突然腕を引っ張られた俺は反動で前のめりになる。  ったくどいつもこいつも目はどこについているんだ。  掴まれた腕を全力で振り払って、俺は俺に声を掛けてきた男に叫んだ。   「俺は女じゃねーよ!どこに目ぇつけてんだクソ野郎!」    叫んだのはいいが、俺の目の前にあったのは黒い壁だった。  いや、正確には黒い服を着た何か。眉をしかめ上を向く。  それでも見えたのは男の首元ぐらいで、その大きさに気圧されるようにジリ……と後ずさりして漸く見えた相手の顔。 「なんだ、お前そんな顔して男なの?」  目の前に立っていたのは全身真っ黒な長身の男だった。  ハァ、と吐いた息が白い。その向こうで俺を見下ろす黒い双眸がわずかに細められる。 「なんだよく見りゃガキじゃん。こんな時間にこんな所で徘徊なんて悪いやつだな?」  俺を上から下まで観察する視線がウザったくて、俺は男から更に距離を取ろうと身を捻るが、如何せん背の高い男の手足はそれに比例して長く、逆に男に巻き取られるように引き寄せられた。 「放せ! バカ!」 「放してもいいけど、それ以上奥に進むと痛い目見るのはお前だよ、おバカちゃん」  顎を取られ、上を向かされる。なんなんだこの気持ち悪い男は。  ただでさえバカみたいに高い身長のこいつに合わせようとすると、俺の首はほぼ真上を向く形に固定される。 「んー惜しい。これで女なら最高なのに」 「てめぇ……何度も何度もっ。俺は女じゃねぇって言ってんだろ!!!」  この世で一番嫌いな言葉があるとしたら、俺にとってのそれは”女みたい”だ。  そして今の俺は男に止められた怒りと、背後からにじり寄るような焦りと恐れで感情が今にも爆発しそうだった。  俺を掴む男の腕を振り払えないならば、絶対に差がない場所から狙えばいい。  膝の位置は違えども、地面につく足の位置は絶対に同じだからだ。  俺は勢いに任せて男の足を踏んでやった。  「放せって言ってんだろ!!!」    渾身込めて踏みつけてやったので、多少は緩むだろうと謀った俺の腕をつかむ男の力は、それでも一切緩みを見せなかった。 「威勢だけは一人前だな、お前。ちょっと付き合えよ」 「やめろ! やめろって、この人攫い!!叫ぶぞ!!」 「もう散々叫んでんじゃねーか。あんまりピーピーうるせぇとその口ふさぐぞちったぁ黙ってろクソガキ」  掴まれた腕は放されたが、逆に襟首を掴まれ引きずられる。  ずるずる、ずるずると。抵抗心が折れたというよりは、諦めの気持ちが強かった。  何より3月というまだ寒い季節、急に体の芯の冷えを自覚したらもう抗う体力もわいてこない。  もうどうにでもなれ、という気持ちで俺は男に引きずられるまま暗い路地から連れ出された。    

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