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土曜日の奪われた夜 the point of no return①

***   ――――ガチャリ。  マンションの扉を開いて真っ先に目に入ったのはを夜闇映す横に連なった大きな窓だ。  遠くで何か赤い光がチカチカと明滅している。    部屋は驚くほど広く、その現実味のない空間に一瞬自分の境遇を忘れかける程だ。 「こっちだよ」  部屋の中を把握しきる前に再び腕を取られ引っ張られる。座らされたのは部屋の中央にあるL字ソファで、手を伸ばせば届く距離に普段はお目にかからないような石で出来たローテーブルがある。  座った俺の隣で、立ったままのマサカドが胸ポケットから取り出した煙草を咥えて火をつける。   「誰を連れてきてくれたの」 「?!?」  俺はマサカドの行動ばかりを注視していたから、真後ろから突然聞こえた声に心臓が飛び出そうになった。  上半身だけで振り向くと、俺のすぐ目の前には耳元まで前髪を伸ばした男が俺のすぐ横にソファの背に両肘を付いて俺の目を覗き込んでいた。  深い深い、黒の双眸。  こいつ、は。 「あんた、昨日の」 「昨日……?」 「貴方が昨日俺に話してくれたガキですよ。興味失くすの早すぎでしょ。まぁ、だから俺が貰ったんですけど」  ふむ、と俺から視線を上に逸らし数秒何もない空中を眺めた後、「あぁ」と合点がいったようで。  男は体をソファの背から離すと、そのままソファを周りこみなんと俺の隣に腰を下ろした。 「っ……司さん」 「司……?」  俺の反対にいたマサカドが怪訝そうに声を上げたので、どういう意味かとそちらを向こうとしたが、俺の腕を司さんが触れてきてそうもいかなくなった。 「っ……!」 「あぁ、ごめん。突然触ったから驚いた?」 「……いえ」  昨日もそうだが、この人は何か変だ。  一見優しそうに見えて、声も穏やかで、態度だって柔らかい。 なのに最初はよくてもこの人と話しているとどんどん頭の中でピリピリと痺れが走ってきて、それが警告なんだって気づいた時はもう遅かった。 「昨日はちゃんと家に帰れた?」 「いえ……」 「待たせていた友達と会えたのかな」 「そうじゃないんですけど」 「ごめんね、俺が昨日君を引き留めたから」 「そんなことは、ない、です」 「ん、じゃあ…………詩子ちゃん心配してる?」  これだ。  俺が昨日他愛もない世間話だと思って続けた会話の中で詩子ちゃんの名前は出しただろうか。  出したとしたらどれだけ出しただろう。  学校の友達は?先生は?親しくしてる近隣の人の名前は?  この人の話に乗っかって、俺は俺のことをどれだけこの人に話したのかあまり覚えていない。    ハッと我に帰った時、もう全てが手遅れで。  正直この人に悪意があるのか、ないのかすら判断できない。  けれど俺の中にある手札を一枚一枚順番もなく暴いて、一方的に始まって終わるゲームを、正気かと言えばそうではない。    まるで、ゆっくりと時間をかけてヘビに丸呑みにされていくような悍ましさだ。  足元から這い上がって来た恐怖が今はもう指先まで絡め取ってしまう。寒くはないのに指先の感覚がない。  黒い目が俺をまっすぐ見据えて、離さない。  昨日はなりふり構わず走って逃げたけど、今はもう逃げ出す場所すらない。 「っ……」 「大丈夫?……息、吸っていいよ」  吸っていい、ってなんだ。俺は息をしていないって事だろうか。  確かに舌はへばりついたように動かないし、声を上げようとしても口を開けない。  司さんの手が俺の腕からゆっくり上がって来て、途中で両手になり、最後に俺の顔をそのままゆっくり包んで、酷く優しい微笑みで俺を覗き込む。 「っ――――あ?!」  反対側の腕に刺すような痛みを感じたのは、司さんの目に引き摺り込まれそうになった瞬間だった。 声も体も機能しなくなった時から耳も聞こえなくなっていたのかもしれない。  痛みの元を咄嗟に見ようとするが司さんに固定された首は勿論回らない。俺の視界が恐怖と混乱に塗りつぶされていく中で近づいてくるのは形の良い、薄い唇だった。 「んーーー!!んっ、んん」  何が起きたのか分からなくて咄嗟に暴れる為に振り上げた腕はマサカドと司さんにそれぞれ反対側から押さえつけられて意味を為さなかった。  ――――口、口が。触れてっ  ――――ってか、これってまさかキス?!  キスなんて、俺にとってはテレビの中のモノだった。  そりゃあ友人から話を聞いたり、本で読んだりそれがどういうモノであるかは理解してる。  それでも俺にとってのキスは初めてで、しかも、その初めてが。  目を思い切り見開いて俺の目の前にある男の顔を呆然と見る。  そう、男だ。 「っ……何しやがっんぁ……」  固定された顔を振って逃げようとするが、罵ろうと口を開いた瞬間ぬるりと、熱くてぬるついた何かが俺の口内に侵入してきた。  それが司さんの舌だと理解した時、脳裏に"噛みついてやる"というよく聞くフレーズが過ったがアレは嘘だなと体感する。    だって、だって、こんなの……、絶対無理だ。  いくら嫌だって思っていようが、やめてほしいってアピールしようが、こんなものに口の中を蹂躙されたら正気じゃいられない。 「んんっぁ…………んぅ!……ふ、あっ」 逃げる舌を追い回されて、諦めたかと思えば上顎をぞろりと舐められる。離れたかと油断すればすぐに貪ってくる一方的なキスに俺は喉を機能させる暇もない。  溢れた唾液が口端からあふれて伝って、ズボンにシミを作った所で司さんは俺から離れた。 「っは……うっふっ……」    俺は見るからに呼吸困難に陥っているのに、司さんは涼しげな顔で唾液で濡れた唇を親指で拭うと、そのまま何も言わずソファを立った。  どこにいくのかと背中を目で追うと、どうやらキッチンがある方へ行ったらしい。 「あの人とのキスどうだった?」  後ろから声を掛けられて俺はびっくりして肩を揺らした。  そうだ、俺の隣にはマサカドがいたんだった。  それに、キスの直前何かなかったか。 「こんなの、カウントに入ら……、な…………」 「あの人のキスがカウント外なんて、言うねぇ」  マサカドが俺の隣に座ったことは腕を押さえられた事で気づいていた。 だが、マサカドの手の中にあるそれを俺は知らない。  乱暴に捲られた袖と、俺の視線に気づいたマサカドが下卑た笑いを浮かべながらローテーブルに放り出したモノ。  カチャリと音を立てて机の上に転がったソレは注射器以外の何物でもない。  ――ゾっと身体中を言いようのない悪寒が走る。  中途半端に捲られた袖の中を見るのが怖くて、俺はただ傷む箇所に手を当てるしかできなかった。 「なん、なんで」  俺の意味の無さない"なんで"、をマサカドは首を横に倒して嗤う。 「なんでって、言ったろ?"君にピッタリな話があるって"」

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