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高校生活のはじまり③

 三十分かけて高校から天塚の家に帰った俺は、玄関から俺の部屋に向かう過程で、珍しい姿を見つけた。  窓をあけ、縁側に腰を下ろし庭を見上げる匠だ。  今日は仕事が休みだったのだろうか。  その長身を包むのはいつか見た黒い着流し姿だった。時々吹く風はお世辞にもまだ暖かいとは言えないけれど、家の中の空気を入れ替える分には心地良い。  俺も匠の視線に釣られて庭を見た。  この家に来た時には兆しのなかった枝にピンク色の蕾がふっくらと連なっている。  そよそよと吹く風が匠の長めの前髪を靡かせて、その薄い唇には煙草が咥えられていた。    ……匠は何しててもサマになる。    仕事に行く時のスーツ姿も、出かける時の洋服姿も。家の中での着流し姿も。何着てたって悔しいけど匠は格好いい。  見た目が派手なだけの俺と違って、年齢も体格も所作も。全てがカチッとハマってるようでずっと見ていられる。 「ん?……帰ってきてたのか。おかえり詩音」 「ん、うん」 「なんでそんな端にいんの?あぁ寒いか。そろそろ窓閉めるから先に部屋ん中入れよ」  そう言って立ち上がる匠は手持ちの灰皿で煙草の火を揉み消して、窓を閉めた。 「もうちょっとで桜咲く?」  俺が尋ねると匠は嬉しそうに笑った。 「あとちょっとって所だな。このまま晴れが続けば三日後には咲いてんじゃないかな」  障子を開いて部屋に入ると続けて匠が入ってくる。  俺が着替えるためにブレザーに手を掛けると、匠は壁に背を寄りかからせて俺を見た。 「ああ、この部屋何か足んねぇと思ってたけどソファか」 「勉強する時ローテーブル使うから、必要無いしなぁ。あと布団敷いたらソファなんてあったら狭くなるから要らない」  それに畳とローテーブルの間には俺が気に入ったふかふかのラグも敷いてある。 「ふむ。……今朝ネクタイ自分で巻いてったんだろ?よく出来てる」 「そりゃ……匠に教えてもらったし」  コートとブレザーをハンガーに掛けて、ネクタイを緩めブレザーと同じハンガーにネクタイを引っ掛ける。  それからズボンのベルトに手を……の所で俺は匠を振り返った。 「あのさ、俺着替えてるんだけ、ど?」  いつまで後ろで見ているのか。いくら同性とはいえ見られていると思うと少し気まずい。  そう思って匠を部屋から追い出そうとした俺と匠の怪訝な表情とがバチリと合った。 「えっ、ちょ、何々っ」  壁から背中を離した匠が俺の方へと歩いてきて、手を伸ばせば触れられる程目の前で匠がとまる。  こんな至近距離まで来られると、二十センチ以上身長差がある俺は首を真上に向けないと視線すら合わない。 「お前、これどうしたの?」 「これってどれ?」  匠が何を言っているのかさっぱり分からなくて首を捻ると、匠は俺の乱れたカッターシャツに手を伸ばしてそのまま少し横にズラした。自分の肩口より後ろなんて見れるわけないから匠のさせたい様にさせていたが、その内匠が俺のカッターシャツのボタンを全部外して、肌着を捲り上げたので流石に慌てて飛び退いた。 「何するんだよ!」 「何って、お前背中凄い青痣になってる。むしろこっちが聞きたいどうしたんだそれ?」 「どうしたもこうしたもそんな事知ら……あ」  知らない、と口から出し掛けて一つ思い当たる節があった。 「そうだった。学校で転けたんだった」 「転けた?」 「うん、ちょっと。だからそれで青痣が……、匠?!」  無理して体を捻れば視界にギリギリ青痣が見える。どんな大きさの青痣になってるかは鏡を見ないとわからない。  俺が青痣を見ようと苦心している所に匠がまた近づいてきた。その目は少し冷たい。 「ちょっとって何」 「ちょっとってちょっとだよ!転けたって言ったろ!」 「へぇ、お前はちょっと転けたらそうなるんだ?」  人差し指を唇に添えて、小さく首をかしげる仕草は匠のモノゴトを考える時の癖の一つだ。  傍から見ている分にはいいが、その視線の先の当事者になると鋭い視線に晒されるだけで心拍数が上がる。  俺が一歩下がれば一歩前へ。三歩下がれば二歩前へ。  そもそも身長が違うんだから足の長さも歩幅も違うわけで俺はすぐ部屋の壁に背中から追い込まれて――……ぶつかりそうになった所を匠が手を差し込んで守ってくれた。 「……で?誤魔化すなよ。なんでそうなった?」  必然的に背後は壁、匠の腕に阻まれて逃げ出す事できず、視線を合わせるために腰を折った匠は俺の鼻先で意地悪そうに笑った。 「っ〜!階段でっ」 階段、と口にすれば眉根をぎゅっと寄せて、匠の表情がまた難しい顔に戻る。 「……階段から、落ちそうになってた子を助けようとして引っ張ったら、踏ん張りが効かなくて背中から転けたんだよ……」  声が尻すぼみになり言い終えると自然と唇が尖った。体が勝手動いた結果とは言え匠に"ダサい"と笑われるかと思ったが匠は目を丸くした後、俺から離れて大きく息を吐いた。 「なんだそんな事か。んじゃあまた意識が途切れたとかではないんだな?」 「違う!」 「なら良い。いや、よくはないか。今緒方がいつもの部屋にいるから後で念のために診て貰えよ」 「……うん」  俺は結果的に鈍臭い転け方をした事を隠したかっただけなのに、匠は俺がまた倒れたんじゃないかと心配してくれていたようだ。 「ごめん、心配させて」 「いや、俺もこないだの事があったばかりだし少し神経質になってるのかもな。お前のことを信用してるから何かあったら言ってくれれば良い」  そう言って俺の頭を慣れた手つきでわしゃわしゃと撫でていたが、ふとその手が止まる。  匠が神妙な顔つきで俺を見下ろしている。  今度はなんだ。 「匠?」 「ん。……んー?お前ちょっとだけ背ぇ伸びた?」 「まじで?!」 「うん、ほんのちょっと」  普段の俺ならその言い方に怒り狂ってるが、それが常日頃から欲してやまない身長の事なら話は別だ。  ついに中学時代それほど伸びなかった俺の成長が始まったのかもしれない。 「やった!測ろう!匠、メジャーってある?あ、車の中だっけ?!」 「いや。待て落ち着けよ。俺に任せとけって……こう見えても長さを当てるのは得意なんだ」  なんだその特技。そう思いながらも俺は匠の前に足の踵を揃えてピタッと直立だ。 「うん、確かに伸びてるな。百六十センチって所だ」 「やった!百六十…………六十?」 「よかったな。百五十センチ代から足抜けて」  見上げると、匠がそれはもうニヤニヤと面白そうに笑っている。 「お前、俺が今まで百六十に足りてなかった事……」 「言ったろ。俺は長さを当てるのは得意だって。可愛い可愛い詩音ちゃんが背伸びして百六十に届きたいって気持ちは痛いほど解ってたから。俺とまだ二十六センチ差かー。たくさん食べてたくさん寝て大きくなってね、詩音ちゃん。見守ってるから」 「っっ要らんお世話だー!!"ちゃん"付けすんな、馬鹿野郎!!!」 部屋から匠を追い出して、在らん限りの力で障子を閉める。  その障子一枚隔てた向こう側で匠が肩を揺らして笑いながら去っていくのを俺は睨みながら見送った。

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