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身体を起こしてそちらをむくと、首にタオルをかけたままのシャワー上がりのエヴァンが立っていた。
渋くていい大人って感じの彼には似合わない、俺のカジュアルな青色のTシャツとチノパンに身を包んでいて、思わず口角が上がる。
「サイズ合ってよかったけど、ちょっと派手すぎたね」
でもなんか、役得ってかんじ?
人助けしたんだから、こんな恋人ごっこみたいなこと、少しくらいしたって許されるだろう。
「あぁ、ありがとう」
不器用に口の端に笑みを乗せる、そんな微笑み方が綺麗だった。
エヴァンは遠慮がちに俺の横に来るとソファの端に腰掛けた。
「髪の毛濡れたままじゃ風邪引いちゃうよ」
そう言ってから、風邪なんて引かないかと思い起こしたけれど、特にエヴァンは何も言わず頷くだけで。
「乾かしてあげるよ、まってて」
少しの沈黙でまた、鮮烈な光景が脳裏にちらついてしまう。
今さっきだから仕方ないけど、気まずくてそう言って洗面台にドライヤーを取りに向かった。
洗面台の鏡に映る自分の顔が赤くて、どうしようかとため息をひとつ。
それからまた確かめるように首筋の2つの傷を見て、現実なんだと再確認した。
自分が男性を好きだと気付いたのは、思春期真っ只中の中学生の頃だった。
「玲央くんすごいですね。どんどん早くなってる」
陸上に打ち込んでいた俺を、陸上部の顧問でもなんでもない男の先生が褒めてくれていた。
「素人目にもフォームきれいだし」
そんなふうに褒められて嬉しかったのと同時に、もっと見てほしいという欲で胸が一杯になった。
当時13,4そこらの俺と30代の先生の間じゃ、それ以上は何もなかったけれど。
ただ話せるだけでも嬉しかった。
先生が褒めて撫でてくれるのが誇らしかった。
その後も、嫌になるくらい俺の趣向は変わるわけでもなくて。
それでも、カミングアウトするほどの勇気も持てなくて。
大学生になってゲイ向けの出会い系で知り合った人と、行きずりで付き合っては別れてを繰り返していた。
相手を選べるわけじゃないから、合わせてできるだけ好きになろうとして。
けど、結局そんな関係はうまくいくわけなかった。
幸運にも友達は多いほうだし、人付き合いが苦手なんてことはなかった。
ただ、本気じゃないって、思ってるより辛いんだろうな、お互いに。
身体を重ねたことも、気持ちいいって感じたこともあった。
でも今までのはきっと偽物だったんだ。
ごつごつしたエヴァンの指に触れられるのを思い出して、半分立ちかける。
ふーっと息を吐いて耐えるけど。
早く戻んないと。
どくどくと痛いくらいに脈打つ鼓動をどうにか鎮める。
”おかしく”って、もしかして、してる最中以外もなの?
はぁともう一つ息を吐いて、収まりきらない熱を潜めなからドライヤーをコンセントから引き抜くと、リビングへ向かった。
「おまたせ」
エヴァンのテレビに向けられた視線が俺に向かって、そしてまた戻される。
充電器用に伸ばした延長コードにプラグを挿し込んで、準備は万端だ。
「さ、こっちきて」
言いながら、そういえばいつの間にかため口利いちゃってるなって思う。
それでも特に気にすることもなく、エヴァンは自身が座っているのと反対側の端に座り直してくれた。
「熱かったら、言ってね」
気にしてないならいいかとまたそんな調子で続けて。
温風を当てながら、そっと髪の毛に触れて乾かしていく。
前の恋人に付き合いたてにされて、俺もしてみたかったんだ。
好きな人に。
しばらくドライヤーの音に占拠されて、穏やかに沈黙が続いた。
あっという間の昨夜からの出来事に、夢を見ているみたいだった。
指にかかる熱風も黒髪の感触もリアルすぎて、情事がちらついて振り払うように今の行動に集中して。
それも数分で終わってしまった。
つややかな癖のついた黒髪を手ぐしで整えて、沸き起こる愛おしさを噛みしめる。
「さ、できたよ」
さとられないようにいつもの調子で声を出す。
出会って半日くらいで、身体を許してしまって、どんな気持ちで接したらいいか全然わからなかった。
「あぁ、ありがとう」
「――争った形跡が見られ、血溜まりのようなものもできていました。現場にはジャケットやワインボトルの割れた破片なども散乱し」
彼の控えめな感謝の言葉を胸に刻みつつも、再び聞こえるようになったニュースの声に俺もエヴァンもテレビ画面へ視線を向けた。
そこに映し出されていたのは、昨夜エヴァンが襲われていたあの場所だった。
「また、現場から逃走する男性の目撃情報もあり、警察は何らかの暴行事件として調査を進めています」
淡々とした女性アナウンサーの声に不安が募った。
具体的な情報は出てなかったが、「逃走する男性」と言っていた。
「エヴァン、これ俺等のことじゃない、よな?」
なんとかそう冗談っぽく、でも少しかたくなった声で話しかける。
エヴァンは深くため息をついて腕を組んだ。
「え、エヴァン……?」
そんな彼が気がかりで覗き込むと、かなり難しい顔をしていた。
「可能性はあるから、しばらくは近づかないほうがいいだろうな。それに」
さっと覗き込む俺に視線を向けると、申し訳無さそうに眉間に皺を寄せた。
「血を、その提供してくれる場所を、あの周辺のしか知らなくて」
「え? ち、血を?」
「そう、だから……」
俺の目をじっと深い青色の瞳が見つめて、そして彼は首を振って一人納得したように一つ頷いた。
「ほとぼりが覚めるまで、飢え死にしなければいいが」
まるで他人事みたいに目の前のヴァンパイアはそうつぶやいた。
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