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◆エヴァン   「じゃあ、俺ちょっとでてくるけど、すぐ近所だから安心して待ってて!」  その日の夕方。念の為の変装で深くキャップを被り伊達メガネをするレオの姿は、より一層その幼さを際立たせるようだった。 「本当にいくんだな?」 「うん。ほんとすぐ近くだし、数時間だけ。どうしても外せない用事で……絶対見つからないように気をつけるから」  ことが静まるまで仕事は休みを取らせたが、それでも今日決まっていた予定はずらせないようで。  言いながらレオは、申し訳無さそうに両手を握り合わせて覗き込んでくる。 「だいぶ現場からは離れているから、大丈夫だとは思うが。気をつけろよ」 「うん! じゃあ、俺……行くね! 眠かったらベッドまた使ってもいいし、あとはあとは……あ、一応俺の番号教えとくね」  走り書きしたメモを渡された。時間を確認したレオはばたばたと玄関をあとにした。 「いってきまーす!」  なんて大きな声で言って出ていく後ろ姿を見送り、玄関の鍵を締めた。  自分が捕まるかもしれないのにと、何度か止めたのだが、彼は意外と勇気があるのかもしれない。  俺を助けたりするくらいだしな……。  引っ掛けていたレオのサンダルを脱いで、ふぅとひとつため息をつく。  日本式の一段上がった玄関を登る。  ふと、今朝ここで彼にしてしまったことを思い出し、後悔の念が沸き起こった。  長時間のフライトに加え、その後も血を飲む機会を逃して喉の渇きが限界まで達していた。  だからこそ長年嫌厭していた、吸血をしてしまったのだった。  ここにいると、光景が感覚が鮮明に思い起こされる。  ボトルのものでは味わえない、瑞々しさと生命力に満ちた彼の血液。  顔を甘く蕩けさせながら縋り付く様は、忘れていた人としての本能を否応なく掻き立てた。  実際、レオが気を失う前、俺自身もきつくズボンの中を押し上げていた。  ヴァンパイアになってもその機能自体は失うことはないのだが、もう何年も枯れたようになっていた俺にとっては、あまりにも新鮮な感覚だった。  彼は、俺になんの関係もない上に、ただ助けてくれただけの人間だ。  それ以上でもそれ以下でもないはずなのに。 「まいったな……」  もう一つため息をついて、玄関をあとにしてリビングのソファに腰掛けた。  スマホを取り出し、レオの番号を登録する。  それから電話帳に数個ある連絡先の中から、昨日来日してすぐにチェックインしたホテルの支配人の番号に電話をかけた。 「はぁい、こちらマクベスでございます」  間延びした脳天気な声が響く。 「エヴァンだ」  そう名乗ると、電話口の男は、演技じみて派手に抑揚をつけた癖のある話し方で続けた。 「やぁやぁ、これはこれは、エヴァン・ホーク公。昨夜は実に派手にお遊びになられて」  声を潜め皮肉たっぷりに告げられる。 「もう耳に入っているなら話が早い」 「えぇ、えぇ。そのことだろうと思っておりました。それにしてもいつお戻りで? カナダから書籍やらお召し物やら届いて、もうてんやわんやですよ。こちらは」 「そのことなんだが、実は昨日、人間に助けられて」 「ほう、それはそれは」  マクベスは格段驚くこともなく、既に知っていたかのように空返事を返す。 「昨夜の件も早速ニュースになっていたし外出は控えるべきだろうから、しばらくは彼の家に邪魔することにしたんだが」 「えぇ、それは素晴らしい。なんという奉仕の精神、人間ごときがおっと失礼」 「……彼をこちらの事情に巻き込みたくない。それで、目撃情報もそうだが、昨夜の現場で触れたボトルにおそらく指紋が」 「あぁ、それなら問題ございません公爵様。こちらも足がついてはいけないので、遅ればせながら証拠は隠滅済みです。もちろんボトルの破片も血痕も、監視カメラの映像も。なに心配いりませんよ、公爵様に人が危害を加えられるわけがございません」 「そうか、ならば問題ないな。で、荷物だが服を数着」 「おっと、それはいけません。いくら親密な我々の間柄といえど、お客様の荷物を勝手に漁るなど。必要でしたら、全てそちらにお送りいたしましょう」 「いや、一時居候するだけで――」 「なぁにをおっしゃいます。わかっているく、せ、に」  マクベスは声を潜めて続ける。 「いやね、こちらとしても貴方様のような身分のお方をお守りできたら至上の幸福でございますが、いかんせん近頃は物騒でして。こちらの周辺は野獣共がうろうろして、獣臭くって構いません。ほら、あなたが昨夜お会いしたように」  あの黒尽くめの男たちか。  彼が言うように、夜とはいえ人気の多い街でも対して気にするわけでもなく、奴らは追ってきていた。 「いやぁ、ほんとうに心痛でございますが、私共の意見といたしましては、不確定要素が多いとはいえ、そちらに留まる方がよろしいかと。もちろん我々のカバーは万全とはいきませんが、静かにお過ごしになられたいのでしょう」 「あぁ……」  できるだけレオに迷惑はかけたくなかったが、こんな状況では下手に動くほうが危険か。 「では、家主に許可を取ったらまた連絡しよう」 「えぇ、お待ちしております。そちら付近のルブロ・リブラの案内図は、公爵様の私物と一緒にお届けいたしましょう。無事届けられましたら、まぁ、そちらの周辺は少なくとも、しばらくは、安全だと思っていただいても良いでしょう。まったく近頃は牙を立ててくる害獣が多くて困ったものですな」  男は妖しくふふふと笑う。 「では公爵様。くれぐれもお気をつけて」  電話を切ろうと耳元から外すと同時に「あ、そうそう」と呑気な声がしてまた耳元に持っていく。 「なんだ?」 「なんだもなにもヴィンセント殿ですよ」 「なにか情報は手に入ったか?」 「いやぁ、彼は非常に賢い。我々ですらなかなかその尻尾をつかめないので困っているのです。複数の拠点を行き来しているらしい、というところまでで」 「そうか……」  ヴィンセント。そこまで慎重に行動するとは、やはりそれだけのものなのか、その「古書」は。 「なにかわかりましたら、またご連絡をいたします。では今度こそ、ごきげんよう公爵様」  電話がぷつりと切れて、ふぅとため息をつく。  いろいろと情報は仕入れられたが、ひとまずはレオに害が加わる可能性が減ったことに一安心した。にしてもいくらルブロ・リブラとはいえ、警察内部まで手を伸ばしていたとは。  あとは、下手に動かなければいい。証拠がなければ捕まることもないだろう。  問題は人間ではなく、マクベスが「獣」とよんでいた、我々の仲間だ。 『お前がヴィンセント・コンティか』  昨晩の奴らは、はっきりとそう言っていた。  確実に彼を探している。 『どこに隠している』  どこに……「古書」を。  内心、まずいことに巻き込まれているのを感じながら、しかしその大きな秘密を暴く瞬間に期待を寄せて、胸が高鳴った。

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