12 / 24

1章 同棲と傷と1

 広い家の中でひとり暮らしていると、どうしても生活範囲は限られてしまう。自分の部屋のすぐ隣、祖母の部屋だった場所。そこに足を踏み入れるのはもういつぶりかすら記憶が定かじゃない。  扉を開けて真っ先に、重たく光を閉ざす黄色い花がらのカーテンを開いた。初夏の空は今日も快晴で、日に日に夏らしい気温になってきていた。朝日を浴びながら窓を開けると一気に新鮮な空気が流れ込んでくる。 「んー、この天気なら布団も干せそう」  清々しい空気を吸い込み、内心わくわくしていた。  昨晩、用事から帰宅した俺にエヴァンは申し訳無さそうにしながら「しばらく滞在させてもらってもいいか」と尋ねてきた。「もちろん」なんて即答しすぎて、エヴァンには呆れ顔をされてしまった。 「さ、掃除掃除!」  祖母の部屋は、遺品を整理してしまってほとんど何も置いていなかった。彼女が本を読む時に使っていた木製の文机と小さい本棚に引き取り手がなかった蔵書がいくつか、それと押入れに布団一式。  さっと掃除機をかけて、窓枠や机の上を軽く拭く。念の為、電気をつけてみるが電球が切れているようだった。 「電球あったかなぁ」  部屋を出て戸棚を見に行こうとしたところでエヴァンに会った。起きがけのようで髪や服が乱れていた。 「……おはよう」 「おはよ! 今掃除してたんだ」 「掃除?」 「うん! しばらくここ居るなら部屋あったほうがいいでしょ」 「あぁ……ありがとう」  まだぼんやりと隙のあるようなエヴァンを見つめると青い瞳が細められて、胸がきゅっと締め付けられる。彼を目の前にするだけで、どうしても気分が浮ついてしまう。  エヴァンは部屋を覗きに行き、俺はその姿を見送ってキッチンの戸棚に向かった。棚の引き出しの奥に買い置きしていた電球を見つけ、また部屋に戻った。  開けっ放しの扉の前につき室内を伺うと、エヴァンは、本棚の前に座って本の背表紙を撫でていた。  その姿は、窓から入る日の光の下、物憂げな表情も相まってまるで雑誌の一面を切り取ったようだ。 「……本、気になる? 見ても大丈夫だよ」  しばらく見惚れたあとに、そう声を掛けるとエヴァンはぱっと顔を上げて、すぐ気になったらしい本を一冊抜き取った。壁にもたれて座り直し、その本を開いてページを捲る。長い指が本を支え、もう一方の手が文字を追って紙をなぞる。ひとつひとつの仕草が美しい。  いつもよりリラックスした様子で、幾分か表情もやわらいでいる。  その様子をまた、しばらく眺めていた。  こうしているとヴァンパイアなんて思えないくらい、人間との違いがない。  昨日彼に血を吸われて、触れられて、唇を重ねて……そんな光景も夢のように感じてくる。  怖いくらいに感じて乱されたことも……。  もちろん彼が望むならまた吸血されてもいいと思うけれど、あんな風に強烈な快感を繰り返されたら、彼以外で満足できなくなってしまうような怖さもあった。  二度目があるのかはわからないけれど。  あのときは、だいぶ切羽詰まった様子で、傷の治りも悪かったところをみるとだいぶ飢えていたのだろうし。  彼は大人しそうな見た目通り、口数も少なく、表情も乏しい。  嫌われてはないと思うけれど、好かれているかと言われると、いまいち自信はなかった。  エヴァンに不思議そうに目配せされ、さすがに電球の取り替えに戻ることにした。  腕を伸ばして電球を捻り外していく。 「あのさ」  昨日から頭の中をぐるぐると質問が巡っていた。  どれもエヴァンに関することで、ただどのくらい踏み込んでいいのかわからなくて何度も踏みとどまっていた。 「どうした?」  エヴァンは手元の本に下ろしていた視線を俺に向ける。 「あー……」  どうして追いかけられてたの? とか、どんな仕事をしてるの? とか日本にはいつから? とか……聞きたいことは山ほどあったが、それで気分を害したくはなかった。 「本……本好きなの?」  結局また尻込みしてそんな質問をするのが精一杯だった。深く入り込もうとして、この奇跡的とも言える彼といられる時間を失いたくない。 「あぁ、そうだな」  エヴァンは不思議そうに瞬きしつつ、淡々と返した。 「やっぱり! ……俺のばあちゃんも本の虫ってやつで、いい本見つけると年甲斐もなくはしゃいでさ。エヴァンもそんな感じだなーって」  話しながらまたちらりと様子を伺うと、エヴァンは思ってたよりも柔らかい表情で俺の話に耳を傾けていた。  そんな些細なことでさえ嬉しくて思わず顔がにやけた。  外れた電球を手の中で転がしながらエヴァンの前にしゃがみ込む。 「好みの本はありそう?」  聞いてみるとエヴァンは一つ頷いて、手元の本に目線を向けた。  ばあちゃんが好きだった作家の小説だ。俺は読んだこともなくて、そこまで詳しくはないけれど。女流作家で時々テレビにも出ている人だった。 「どんな本でも一読の価値がある」  ぱっと顔を上げたエヴァンの青い瞳に目を奪われる。こうして近くで見ると、波に揺らめく海のように綺麗だ。  じっと見つめられて気まずそうに視線を外して、エヴァンは言葉を続ける。 「ここ100年近くほとんどの時間、本を読んで過ごしていた。日本に来たのもそれが目的でもある」 「へぇ……って100年も!?」 「……あぁ」  驚きすぎてつい大きい声をだしてしまう。ヴァンパイアのスケール感もさることながら、10年、いや1年でさえも本を読み続けるなんて、俺には想像できなくて愕然とした。 「……すっご」  語彙力も全部吹っ飛んで子どもみたいな感想だけが口をついて出る。  ふっとどこか寂しそうにエヴァンは微笑んだ。 「エヴァン?」  空いたままの窓から心地いい風が入り込んでくる。 「すごくなんてない。ただ……部屋に閉じこもって世界との関わりを閉じていただけだ」  さらさらと木の葉が擦れる音がして、遠くでは車が走りすぎて行くのが聞こえていた。  ただ、もの寂しげな表情をするのが切なくて、手を伸ばして彼の節ばった大きな手をそっと握った。  エヴァンは眉根を寄せて薄く笑って見せる。 「なんで、お前がそんな顔」  彼の言葉を遮るようにインターホンの音が響いた。

ともだちにシェアしよう!