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★クラウディオ  涙がやっと引いてきた。  濡れたシャツが冷たかったが、それでもぼんやりと握りしめていた。 「ヴィンセント……」  忘れようと努めてきた記憶の波の中で、愛おしさと苛立ちが繰り返し胸を支配した。  出来ることなら側にいたい。  彼の隣が自分の居場所だと確信できる。  けれど、彼は私を引き止めなかった。あのときも、昨夜のホテルでもそうだ。 『側にいられないならそれでも良い。ただ君のことを想い続けているよ』  ヴィンセントの言葉の無責任さに心底腹がたった。  愛しているとそう何度も口にしながらも、手を伸ばしてはくれない。 「……っ」  ぎゅっと握りしめていたシャツを投げ捨てようと振りかぶる。  けれどただ涙が溢れ出るだけで、気づけばまた胸に抱き寄せていた。  どうしようもなく彼が好きだ。  いくら忘れようと思っても、嫌おうと思っても、出来ないくらいに。  彼がどれだけ愚かだろうが、私を忘れてしまっていたとしても、きっと……。 「クラウ」  彰紀の冷たい声にはっと現実に引き戻された。  声のした方を向くと、扉口で呆れたように私を見る姿があった。 「……彰紀、もう来たのか」  ベッド脇に歩いてくる彼を見つめながらぼそぼそと言う。  こんな姿を見せるつもりは無かったのに、思っていたよりも時間が早く過ぎていたらしい。 「こんなことだろうと思って、早めに来たんだ……ほらおいで」  怒られるだろうかと内心ひやひやしていたが、彰紀はベッドに腰掛けると腕を広げて優しく微笑んだ。  泣きすぎて鈍く痛む頭を持ち上げ、腕を伸ばして彼に抱きついた。  彰紀の優しさと、その温かな体温を感じ心地良い。 「またあいつのこと考えてたの?」  彰紀の問いかけに答えられず沈黙が流れる。 「そう、そうだよね。……あいつの記憶だけ消せたら良いのにな。他の男のこと考えてるって思うだけで頭おかしくなりそうなくらい、嫉妬してる」 「彰紀……」 「だけどさ、戻ってきてくれただろ。このままあいつのとこに行くんだって覚悟してたけど、また戻ってきてくれた」  力強く抱きしめて、まっすぐと愛情表現をしてくれる彰紀。  彼の飾り気のない素直な愛情を受けていると、心に空いた穴が一瞬でも埋まるような気がする。 「クラウのことも、君のヴァイオリンの音色も大好きだよ」  こんなにも不誠実で愚かで、弱い私を受け入れて求めてくれる。  ここまで思ってくれる彰紀を私も好きで求めているはずなのに。  なぜあんなにも、今になってもヴィンセントに心を乱されるんだろう。ましてや、彼が望んでくれるなら彰紀を捨ててもいいとさえ思っていた。  そして側にいられるだけの強さもなく、また距離を取った。  自分の身勝手さも弱さも嫌になるばかりだ。 「クラウ、難しいかもしれないけど、俺のこと考えて、今の生活に目を向けて。引き止めてくれもしない男じゃなく、今抱きしめてる俺のことだけ考えて。それに一緒にさ、やるならとことんやろうって約束しただろう? 仕事には全力で向き合いたいって、いつも君が言ってた」  彰紀の言葉にはっとする。  彼が言うように、過去にとらわれずに今を見るべきだ。  私に残された時間は限られているのだから。 「さ、休暇前の最後の仕事だよ。一緒に完璧にこなそう?」  彰紀の言葉に頷いて身体を起こした。  そして差し出される手を握り立ち上がった。 「彰紀、ありがとう」  彼が私を見つけてくれた日から、こうして手を握ってくれた日から、彰紀が私の側を離れたことはない。  大丈夫、私には彰紀がいるから。大丈夫だ。  彼の手の温もりをもう離さないように、強く握り直した。  あるとき友人と旅行をしていたときだった。彼の誘いでヴァイオリンを演奏している動画をネット上に投稿した。思った以上に反響を貰い友人ともども驚いていた。そして、様々な人からのオファーにも。  中でも熱心に誘ってくれる人が数人いたが、受ける気なんてさらさらなかった。匿名のまま評価されるだけで充分だと思っていた。  けれどたまたま、その旅行中に東京で路上演奏をしていたときだった。何度も熱烈なオファーをくれていた中の一人が、偶然にも居合わせて演奏を聞き、一瞬で私だと見抜いてみせた。  そんな彰紀との出会いは、私に夢をみさせた。  100年前に表舞台に立つのと今では意味が違う。それは理解していた。  けれどあまりにも彼がまっすぐで、屈託なく私を褒めて認めて愛しているのがわかってしまったから。  私しか見えていないような目をしたから。  彼に託したらどこまでも行けるようなそんな気になった――。  私は弱く、身勝手で、ずるい男だ。  彰紀に抱かれながら、ヴィンセントとの思い出や傷を大事に抱えている。  それでも、こうしてひたすらに愛してくれる彰紀を求め、信じている。

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