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 翌日の夜、仕事から帰宅すると玄関にヴィンセントの靴があった。  昨夜、カフェでクラウディオと仲睦まじく話す姿を見て先に帰ってしまったが、あの後うまくいったのだろうか。期待に胸を膨らませながら、ばたばたとリビングに急いだ。 「ヴィンセントさん! って、あれ……大丈夫ですか?」  惚気話を聞く気満々でいたのもつかの間、そこにはうなだれて消沈しているヴィンセントの姿があった。普段は綺麗に整えている髪の毛も起きがけのように乱れており、シワの寄ったシャツは昨夜身につけていたものそのままのようだった。  ひと目見てその問題の深刻さがわかる。  ソファで頭を垂れるヴィンセントの横に座るエヴァンと目が合うと、彼は肩を竦めてみせた。 「ここに来てからずっとこんな調子だ」  そう言って、あのエヴァンですら心配そうにヴィンセントを見つめていた。 「何があったんです?」  ヴィンセントの足元で膝を付き顔を覗き込むと、彼は力なく微笑んだ。 「いやぁ、ケンカしちゃって」  甘い言葉を囁きあって手を握り合い、カフェでの雰囲気は間違いなく良かったというのにと衝撃を受けた。すっかりうまくいくものだと思い込んでいた。  詳しく問いただすと、やはり古書について調べたいヴィンセントと、命を危険にさらしてまでそんなことに傾倒するヴィンセントに耐えられないクラウディオとの対立があったようだった。  一通り話を聞き、どうしても口を出さずにはいられなかった。 「それは、ヴィンセントさん良くないですよ」  まっすぐ目を見て言うと彼は弱々しく口元に笑みを作って見せる。 「どうして好きなのに一緒にいたいと思わないんです? 一緒にいて同じ時間を過ごすだけじゃだめなんですか?」  お互いに強く相手を求めているはずなのに、どうしてうまく行かないんだろうともどかしくなる。 「だめだ」  ヴィンセントが珍しく真剣な表情でそう言い切った。 「ヴァンパイアの人生は長い。彼が本当に何も我慢せずにしたいことができる社会でないと……いや、社会にしないと」  自分に言い聞かせるように力強くヴィンセントは言葉を続けた。 「ヴァンパイアは不老不死、老いないんだ。だから人間社会に紛れて生活しているヴァンパイアは10年、長くて15年ほどで住んでいる場所を変えなきゃいけない。でないと変わらない見た目に不審に思われてしまうからね。人目につかない場所に隠居している場合を除いて例外はない。戸籍も仕事も変えなければならない」  俺にもわかりやすいように、ヴィンセントが噛み砕いて説明してくれる。  不老不死。人間とヴァンパイアの間の決定的な違いだ。  眼の前の30代ほどに見えるヴィンセントも、そしてエヴァンも数百年の生涯を生きてきたという。出会ったばかりの俺には実感はまだ無いけれど、ヴァンパイアが人間の社会に混じって生活する不自由さは容易に想像できた。 「仕事も……」 「そう。クラウディオなんかは特にそう。ヴァイオリニストという公の場での仕事に加えてテレビや雑誌なんかでも引っ張りだこでしょ? 記録媒体に残ってしまったらこの情報化社会でいったいどのくらい残り続けるだろう」  数十年前の情報や写真ですら今はインターネットで検索をかければ一発で出てくる。地球の反対側の情報だって調べることが出来る。 「変わらない見た目でキャリアを全う出来るのは長くて10年ほどだろう。4年前に活動を始めたから、あと6年……それだけなんだ。その後はきっと一生表舞台には立てない」  一生。その言葉が重くのしかかる。  海外で活動を始めようとしても、日本で活動した記録は残り続ける。こうもメディアに露出して話題になっているクラウディオだ。その美貌は他に追随するものもなく、屈託のない生き生きとした姿も見るものの目を惹きつける。情報を探り出し、たどり着いてしまう者は必ず出てくる。 「彼と過ごした数十年の間でもそんな期間があってね。今ほど情報が広まることはないと言ってもクラウは目立つから。あぁ、そのときの彼の様子を思うとほんとに心苦しくなる」  ヴィンセントは眉根を寄せて苦しそうに語る。 「彼が評価されないなんて、彼が自由に聴衆に音楽を聴かせられないなんてそんなの耐えられないんだ。だから彼のために、彼が自由に弾き続けて評価してもらえるように……僕は社会を変えないといけない。この古書ならもしかしたらその足掛かりになるかもしれないんだ」  俺が今まで思っていた愛と違う。  ヴィンセントは深くクラウディオを愛しているがゆえに、今の時間を一緒に過ごすことより、未来の彼の時間を守ろうとしている。  やっと彼の考えていることがわかり、その覚悟に目頭が熱くなった。 「クラウを深く愛しているんですね。それはわかったけど……その話は彼にしたの?」  ヴィンセントは力なく首を振った。 「いや、話せないよ。もし話したらきっと……彼は、今すぐ仕事を辞めることを選ぶだろう。クラウのせいだと思わせるわけにはいかない」  膝の上でぎゅっときつく握り合わせる彼の手をそっと掌で包み込む。 「それでも、そうやって何でも話してぶつかって、二人で道を見つけるものじゃないですか? ヴィンセントさんもクラウもお互いをこんなに想い合っているのに、結ばれないなんて不幸すぎます」  昨日、家を訪れたクラウディオの涙を思い出す。ヴィンセントが生きていると知って心の底から安堵する姿を。  そして、ヴィンセントがクラウディオを心の底から愛していることを知った今は尚更、報われて欲しい気持ちが強くなった。  お互いにこんなに相手を想い、愛しているのだから。 「クラウともう一度話しましょう!」  俺の言葉に弱々しくヴィンセントは首を振る。 「話さなきゃだめです!」  ぎゅっと彼の手を力強く握り語りかける。  しばらく沈黙が続いた。  話すことで、クラウディオが止める可能性が高いのは理解できた。だけど、だからって、クラウディオの為にしていることのせいで彼と距離ができてしまうのは悲しいことだ。 「俺には愛というものはよくわからない」  これまで黙っていたエヴァンが、ふと口を開いた。 「だが、大切な人を……父を失った時、この腕に亡骸を抱いた時、思ったことがある」  エヴァンに顔を向けると、掌を見つめその当時のことを思い起こしているようだった。 「なぜ一人で全て決めて、一人で背負い込んで、苦悩を一言も口にすることが無かったのかと」  ヴィンセントもエヴァンの方を向き、表情を曇らせた。  自分の掌から視線をあげ、エヴァンの青い瞳がまっすぐとヴィンセントを見据えた。 「なぜ話してくれなかったのか、と」  エヴァンの言葉を聞いたヴィンセントは目を伏せ、しばらく考え込んだ。  そして深くため息をつくと、覚悟を決めたように頷いてみせた。 「わかった。クラウと、話そう」

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