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その日の夜遅く、クラウディオが家にやってきた。
その隣には、スーツ姿の黒髪に黒縁眼鏡をかけた男性もいた。細身でどこか暗い雰囲気をたたえて居る彼は、どうやらマネージャーらしく、事務的に差し出された名刺には「久良岐彰紀 」と名前が書かれていた。
落ち着かない様子で待っていたヴィンセントは、クラウディオを見ると気まずそうに微笑みかけ、ソファに座るように促した。
「来てくれてありがとう……」
いつもの自信に満ちた姿はなく、弱々しくヴィンセントが言う。
「……」
クラウディオも思い詰めたような表情を浮かべたままソファに座り、その横に寄り添うように久良岐が腰を下ろした。
「もう一度、話をしたいと思って」
ヴィンセントはテーブル越しにクラウディオの正面に座り、ぼそぼそとそう切り出した。
「そう……私はもう話すことなんて……」
「でも来てくれた」
「それは……レオに呼ばれたから仕方なくで。それで、何なんだ」
カフェで見ていた時とは一変し、クラウディオの突き放すような冷たい声音が響く。
ぴりぴりと張り詰めた空気に固唾をのみながらエヴァンと二人、少し離れた場所からその様子を見守った。
数秒沈黙が続き、部屋がしんと静まり返った。
無機質な照明の光の下で、ヴィンセントは覚悟を決めたようにひとつため息をつくと顔を上げ、クラウディオを見つめて話し始めた。
「覚えているかい、初めて会った時のこと」
クラウディオはその一言に怪訝そうな顔をしつつも、じっとヴィンセントを見つめ返す。
「君のお姉さんの屋敷で、君はヴァイオリンを弾いていた。感情豊かで美しい姿に惚れ惚れとしたよ。君の瞳や髪や笑顔だけじゃない、君の奏でるヴァイオリンの音色に心を奪われた」
実際にその情景を思い浮かべているのか、ヴィンセントは何とも言えない柔らかな微笑みを浮かべて幸せそうに語っていた。
「その響きを失うことがなければいいのにと思った。永遠に」
優しさの滲む声色にも深い愛情が感じられた。
クラウディオの――クロード・モンローの演奏を生で聞いたことはないが、テレビで目にした時、ついそのまま聴き入ってしまったことを思い起こす。それまでヴァイオリンなんて意識して聞いたこともなく、クラシックに興味が無かった俺ですら、つい立ち止まって聴きたくなるような魅力が彼の演奏にはある。
「そしてあの夜、君が命をとして僕を助けた夜。死にそうな君をどうにかして助けたい一心でヴァンパイアにしてしまった」
ヴィンセントは一度目を伏せ、そしてまた顔を上げてクラウディオを見つめた。
「どうにか一命を取り留めたとき、本当に嬉しかった……君のように神の寵愛を受けている、美しく才能豊かな人を助けられて」
「大げさだ……今更、昔話なんかして口説いたって……」
クラウディオは、困ったように眉間にしわを寄せて言う。
「同時に、君をヴァンパイアにしたことを後悔した」
今までの幸せそうな表情から一変して苦々しくヴィンセントは微笑む。
「君が人前で演奏できない時期を何年も過ごして、それで、思ったんだ……今後一切人前に出られない時が来るのかもって。同じ場所に何年も留まれない。同じ名前や経歴を語れない。そんな不自由さに君を悩ませてしまっている」
「そんなの、生きている事に比べたら些細な問題だ」
はっきりとクラウディオはそう返す。
「ただ生があることを生きるとは言わないだろう? 自由があってこそだ。何より君が評価されない世界なんて意味がない。だから……僕は変えたいんだよ、できるだけ早く、ヴァンパイアが人間と同じように生きられる世界に」
ヴィンセントの言葉に、はっとしたようにクラウディオは眉間に皺を寄せた。
「そう、……やっとお前が考えてることわかった気がする」
遠巻きにもわかるくらいに大粒の涙がクラウディオの頬を伝う。
「ヴィンセント、ありがとう……」
ヴィンセントを見つめにこりと微笑み、その拍子にまたぽたぽたと涙が溢れ落ちた。
咄嗟に手を伸ばすヴィンセントだったが、その手が触れるより先に、久良岐がクラウディオの肩に手を回し優しく包みこんだ。
まるで親しい間柄のようにそのまま身を預けるクラウディオに、俺もヴィンセントも驚いて息を飲んだ。
「クラウ、ディオ……」
ヴィンセントのか細い声が弱々しく響く。
「私は確かに、ヴァイオリンや音楽が好きだ。離れることはできないし、自分の一部だと思っている。だけど私だって、理解した上でこうして活動してるんだ。……すぐに社会が変わることはない。ヴァンパイアが偏見や畏怖の対象になるのはわかりきったことじゃないか?」
久良岐の腕の中でクラウディオは、言葉を続けた。
「今こうして表立って活動しているせいで、これから先、何年……何百年……今と同じように活動できる日は、もう二度とこないかも知れない。それでもいいって思えるくらい、私は今全力で取り組んでるんだ。この腕が指がある限り、弾けなくなることなんてない。それでいいって思ってる。だから、やめてくれ、私のために……お前が命をかけることなんて望んでいない」
涙ぐみながらもはっきりとした口調でクラウディオは言う。
「私のためだっていうなら、やめてほしい」
少し顔を伏せて、意を決したようにクラウディオはまっすぐとヴィンセントを見据える。
「やめられないなら……もう弾かない」
「弾かないなんて、そんな事言うな……」
ヴィンセントの予想よりもさらに最悪の展開になってしまう。
「人の命をかけられるほどの価値があることなんかじゃない」
はっきりと言い切るクラウディオにヴィンセントは身を乗り出して訴えかける。
「あるさ、何度も君に救われた。君さえいれば、君が好きなことを好きで、幸せでいてくれれば……」
「やめてくれよ……私達はもう、終わったんだ」
そう言いながら、顔を歪ませるクラウディオ。
「なんで、あのとき……話そうとした時に黙ってたんだよ? 今更、遅いんだ……」
クラウディオの青い瞳からは、ぼろぼろと涙が溢れ、弱々しくしゃくりあげる。
「クラウ……」
ヴィンセントが青ざめた顔で縋り付くように手を伸ばす。
そんな彼を前に、久良岐がクラウディオを抱きしめてその背中を擦った。身体を擦り寄せてしがみつき泣くクラウディオの声が悲痛に響く。
その様子に胸が苦しくなった。
ヴィンセントの真っ直ぐな全力の愛を伝えたら、ともすれば道は開けるんじゃないかと安直に考えていた。
クラウディオだって、ヴィンセントを好いていることには変わりはないと思っていた。
あの夜、確かに二人は再会に喜び、その心は通じ合っているものに感じられた。
それなのに、どうしてこうも、現実は複雑ですれ違ってしまうのだろう。
クラウディオを胸に抱いた久良岐が、きっとヴィンセントを睨みつけて口を開いた。
「ヴィンセントさん、もうやめてください。あなたの行動すべてがクラウを苦しめているって、わかってるでしょう? クラウは自立した大人だ、あなたに手を引いてもらう必要なんてない」
淡々とした冷たい久良岐の声が響く。
「…………」
空を切った手を握りしめて、ヴィンセントは暗い表情でクラウディオを見つめていた。
「どうか、クラウの前から消えてください。この人にあなたは必要ないんですよ。勝手に思い上がって自己犠牲なんかで気を引こうとするのはやめてください。本当に愛しているというなら、何がクラウにとって重要で、どんな行動が最善かわかりますよね」
固く口を結んで、ヴィンセントまで泣きそうに顔を歪ませていた。
「話は以上ですか? ほら、クラウ……帰るよ」
何も言い返せないでいるヴィンセントを見ると、久良岐はクラウディオを立たせ玄関の方へ向かっていった。
ヴィンセントは追いかけることもできずにうなだれ、俺もエヴァンもどうすることもできないまま、彼らの背中を見送った。
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