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★エヴァン  目の前の純粋な青年の好意に胸をときめかせている反面、相応しくないと思った。  愛おしい。泣かないで欲しい。笑っていて欲しい。  そんな様々な感情の中で、何よりも彼を失うのが怖かった。  ヴィンセントの後を追い、戻ってこない彼を探しに行ったとき。  力なく倒れる彼を見たとき――。  どうしても嫌な予感が頭を走った。 「エヴァン……?」  困惑するレオの唇を塞いだ。  肌に触れる温もりに安心する。彼がまだ息をしていることがこんなにも嬉しい。  きっとこれは、長く生きすぎた弊害なんだと思う。  500年以上の時の中で多くを失ってきた。  実の家族も大好きだった人も友人も、父上も――。  ヴァンパイアになる前、幼少期から支え合って生きてきた最愛の男を看取り、何もかもを失った気になった。  父に救われヴァンパイアになり、彼の深い愛情と信頼に包まれて幸せを得た。だが、結局俺は彼を手にかけた。それまでの幸福を自分の手で壊した。腕の中で冷たくなっていく亡骸を抱きながら、後悔と悔しさと空虚な感情に支配された。  そんな大切な人達と並ぶくらいにレオのことを強く想ってしまっていた。  彼は、父の死後、人と距離を置き続けて忘れていた優しさを思い出させてくれた。生まれてからずっと感じたことのないような温もりを与えてくれた。  それらに戸惑う反面、心地よさに溺れてしまいそうだった。  出会って数週間でこんなにも俺を変える彼を特別に思わずにはいられなかった。 「側にいるから、もう少し休め」  唇を離し、そっと頭を撫でた。  レオは、やや不満そうに俺を見たが頷いて目を閉じた。    昨晩、検査と治療を受けベッドで眠るレオを眺めながら申し訳無さでいっぱいだった。  きっと俺と出会わなければ彼がこうして怪我をすることなんて無かったはずだ。俺が彼の優しさに甘えなければ。  一向に意識を戻さないレオの寝顔を眺めながらそんな後悔に苛まれていた。  そして明け方にやってきたレオの父親と顔を合わせて、酷く胸が痛んだ。  彼もレオ同様に人の良さそうな男性だった。実の父親の愛情というものを目の当たりにすると、俺のレオへの好意などちっぽけなもののように感じた。  何よりも、彼からレオを奪ってしまったらと想像するとぞっとした。俺が巻き込んでしまったせいで息子を失わせたらと思うと――。  だからこそ、きっと俺はレオの側を離れるべきなのだ。  そもそもヴァンパイアである俺と一緒にいるべきではない。人は人と同じ時を生き、短い人生を全うしていくものなのだ。  そう、何度と無く自分に言い聞かせながらも、レオの手を離したくない自分が邪魔をした。  彼の温もりの心地よさを知った今、彼から離れるのは簡単に出来ることではなかった。  はっきりとしない態度がレオを傷つけている自覚はあった。  けれど、こうして思い悩む事自体から逃げていた俺には簡単に決められることじゃなかった。  夕方頃になりクラウディオがやってきた。その顔は青ざめて今にも泣き出しそうだった。 「レオ……身体は大丈夫か?」  ベッドに横になるレオに駆け寄り、抱きつくクラウディオ。 「うん、ちょっと怪我しただけだから、って、いてて……」 「す、すまない」  痛がるレオからぱっと身体を離し、落ち着かない様子のクラウディオはそわそわと視線を彷徨わせた。 「その、それで……ヴィンセントは」 「昨日家に来てね……その帰りに連れ去られて。ごめん、俺がどうにかできてたら」  クラウディオは首を何度も振りながら、堪えていた涙を溢れさせた。 「レオ、無事でよかった……お前にまで何かあったら」  肩を震わせて泣く彼につられるようにレオまで目を潤ませる。 「ヴィンセントは、きっと無事だよな……? 私のせいだ、私なんかのために無茶ばかりして……無謀な望みを持つから」  レオは、自由の効く左手を伸ばしてクラウディオの手を取り握りしめた。 「彼の側にいるのが怖かった。いつか死んでしまうんじゃないかって、気が気じゃなかった」  レオの手を握りしめ、まるで懺悔でもするようにクラウディオは泣き崩れて膝をついた。 「そんな彼の無謀な行い全部が私のためのことだと知ったら、どうしてまた側にいたいと言える? 贖罪なんて望んでいないんだ。だから、だから、こんな思いをしながらも離れたのに」 「それだけ好きで、愛してたんだよ……お互いに」  レオはクラウディオを心配そうに見つめながら、静かな声で続けた。 「……ヴィンセントさん言ってた、どう生きていったらいいかわからないって。ただ、クラウがまた弾けるように離れないとって……でもクラウを好きな自分しか知らないって、泣いてた」 「そんな……ばか」  声を震わせて涙を零すクラウディオを哀れに思った。  好きなのに側にいられないジレンマ、それが、どんなに辛いことかわかるような気がした。自分のせいで愛しい人の身を危険に晒すなら、離れることがきっと得策なんだろう。そう、頭では理解できるのだ。  クラウディオは両肘をベッドにのせて握りしめたレオの手を額に当てた。 「本当は、……本当は彼の側にいたい。愛してるんだ……どれだけ忘れようとしても、私にとって彼は誰よりも特別で大事な人なんだ。初めて会った時から……別れてからもずっと」 「クラウ……」 「なのに私は彼の側にいられるだけ、強くない。ヴィンセントをこんなにも愛しているのに、彼から逃げて、その隙間を埋めるように他の人を利用している。自分勝手で、こんなに長い時間を生きているのに弱さを拭い去れない。ヴァンパイアになってからずっとヴィンセントだけだったんだ。彼とヴァイオリンだけが私を私でいさせてくれた。彼を失ってからは、ヴァイオリンだけだった。けれど、いずれ今のように人前で演奏することも叶わなくなる……それから目を逸らすように彰紀に縋り付いて……。こんなにも弱くて独りよがりなんだ……私には、私のために命を尽くそうとするほどの価値なんてないのに」  ヴァンパイアがどれだけ長い時を生きようと、精神的に成熟しているとは限らない。皆、孤独と喪失と隣合わせの中で、心を鈍らせながら生きている。  クラウディオのように感情的で繊細な心の持ち主は、多くの幸福と感動と同じかそれ以上に苦悩を感じているはずだ。  それが弱いとは一概に言い切れない。誰だって、愛しい人の喪失を恐れる心を持つのは当然のことだ。 「まだ出会ったばかりでクラウの全てを知っているわけじゃないけど、いろんなことを感じられる感性が好きだよ、生き生きとして見ているだけで幸せになるんだ。それに、今を大事にして全力で生きようとしているところも素敵だと思うよ。だから自分のこと価値がないなんて、言わないで」  レオの穏やかな声が響く。彼の真っ直ぐな優しさは、誰も彼もに平等に降り注ぎ、慈愛と呼べそうなくらいだ。 「それにきっとクラウには、ヴァイオリンだけじゃないよ。今、大切なものを失っても、また別のをみつけたらいい」 「……ずっと私にはそれだけだったんだ。今更、別のなんて言われても」 「俺もそんな風に思ってたな」  いつの間にか涙を零しているレオの頬に手を伸ばして指先でそっと拭った。レオの潤んだ瞳と目が合うと、大丈夫とでも言うように彼は微笑んで見せる。 「俺は陸上をやめたんだ。小さい頃からずっと続けてて、プロ目指してたんだけどやめたんだ」  初めて聞く話だった。何気なくトレーナーをしているという事実だけを知っていたが、それだけの実力があったとは思わなかった。 「辞めるなんて選択肢、その時まで無かった。だからたくさん悩んで苦しんだよ。コーチにも家族にも、さんざん引き止められて、嬉しかったけど余計に気に病んでさ。すっごい悩んで、友達にも何度も何度も相談して、自分でやめること選んだ」  俺もクラウディオも黙ってレオの話に耳を傾けた。  心配になるくらい優しく、他人思いのレオの明るさばかりが目を引くが、彼の中にも小さな陰りが存在する。 「未練はないわけじゃない。けど、今のトレーナーの仕事もやりがいがあって、むしろ自分に向いてるかもって思うくらいで。あの時の選択に後悔はしてない。クラウもきっと向き合えるだけの強さを持てるよ。大切で大事なことなら尚更、辛くて苦しいだろうけど……一人で悩むんじゃなく、俺を頼って? 友達でしょ、俺達」 「レオ……」 「俺は笑っていてほしいんだ、クラウにもヴィンセントさんにも」  レオの優しい微笑みにまたクラウディオは涙を溢れさせた。  長い人生を生きて来て、こんなにも綺麗な心の持ち主に会ったことがあっただろうか。こんなにも純粋で善性に満ちた人に。  誰に対しても平等に手を差し伸ばすレオに嫉妬しながらも、一種の憧れのような気持ちが芽生えていた。  俺には無いものだった。誰かを支えたいとか自分よりも他人を優先するなんてことは。  それでも、そんな俺でも、レオのことは守りたいと思ってしまっていた。自分のことを後回しにしてしまう彼を甘やかして大事にしたいと思うようになっていた。  俺には彼のように人を支えることなんてできるのかわからないけれど。せめて、これ以上傷つけないようにしたい。巻き込みたくない。  レオが笑っていられるようにしたい。  二人が泣き止みしばらくして、レオの夕食の時間になった。  クラウディオは席を外し、俺は怪我で不自由なレオの食事を介助した。申し訳無さと気恥ずかしさで遠慮がちなレオを微笑ましく思った。  なんとなく以前にも同じようなことがあった気がした。  そうだ、あれは……ずっと昔、ヴァンパイアになる前。床に伏せた彼を――。 『アンドラーチカ』  そう、俺を親しげに呼ぶ弱々しい声が辛くて仕方なかった。  日に日に痩せていく彼が不憫で仕方なかった。 『地獄で待ってる』  そう言って呼吸を止めた彼の冷たくなる手を離したくなかった。  俺は未だにあいつのとこに行けないまま、こんなところに――。 「エヴァン?」  レオの声で現実に引き戻された。  スプーンを置き、レオの手を握った。  温かい。  握り返す力強さもまだあることに心底安心した。 「お前が無事で、本当によかった」  誰かを愛することは、同時にその人を失うことへの恐怖を想起させる。切っても切り離せない俺の弱さだ。  誰とも会わなければ、誰とも深いつながりを持たなければ、それで忘れられたのに。  出会ってしまったから。  愛おしく思ってしまったから。  だから、俺は……きっとレオを守るためにも彼から離れるべきなんだ。  多くの罪と恨み、そして問題の種を抱えている俺からレオを遠ざけるべきなんだ。  その温もりを忘れないように、もう一度強くレオの手を握った。

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