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 お日様の下にいるように身体が温かい。  怠さも鈍い痛みも感じなくなり、むしろ身体が軽くなった気がする。  昼下がりのまどろみを想起させる心地よい眠りの中に、ずっといたい気持ちがある反面、徐々に意識が現実に引き戻されていった。  そうだ、夕食の後また眠ってしまって――。  薄く目を開けると淡い間接照明の光が眩しく、何度か目を瞬かせた。徐々に慣れて来た視界の中に、見知らぬ女性が立っていた。目が合うとしーっと唇の前に指をあてがって見せる。  ウェーブの掛かった赤毛に彫りの深い顔立ち、真っ赤な口紅をした唇が照明に照らされて艶めいていた。  絵画から出てきたかのような美しいその女性に見惚れ、そしてはっとしてあたりを見渡した。病室の中は暗くベッド脇のライトの温かな明かりに照らし出されていた。布団に突っ伏すようにしてエヴァンは微動だにせず眠りについているようだった。開けられた窓から風が入り込みカーテンを揺らしていた。 「あなたは……」  怪しげに微笑む彼女につい、そう声を掛けていた。  夢を見ているのかとも思ったが、肌に感じる風がやけにリアルに感じる。 「夢だと思ったらいいわ、全て」 「え?」  女性のハイヒールの音がコツコツと響き、夏に似合わない黒い薄手のコートの裾がはためいた。彼女はベッドの外周をゆっくりと歩き、エヴァンの側に行くとその身体に手を当てた。エヴァンは意識を失ったかのようにピクリとも動かない。 「この子に会った事も過ごした時間も全て忘れるの、いい?」  ベッドに伏せるエヴァンの胸元に手を差し込んで、軽々と持ち上げる姿に戸惑った。女性にしては大柄に見えるがまるで枕でも持ち上げるかのように、高身長のエヴァンを小脇に抱えているではないか。  そのまま窓辺に歩いていく女性。 「ちょっと待ってください! エヴァンをどうするんですか!」  慌てて起き上がって彼女を制止した。 「あなたには関係の無いことよ」 「関係あります! だってエヴァンは」 「ヴァンパイアは人間を惹きつけるように美しい容姿を持つ。人間を利用するために甘言を弄する……それだけのことよ。この子にどう口説かれたのかは知らないけれど、騙されていただけよ」  冷たく淡々とした口調で彼女は言い放った。 「そんなことないです! もしそうだったとしても、俺は……」  俺を心配してくれた彼も、愛おしそうに見つめた青い瞳も嘘なんかには思えなかった。本当にからかって利用されているだけだったとしても、俺はもう放って置け無いくらいに彼のことを想ってしまっていた。 「手荒な真似はしたくないのよ。これ以上騒ぎを広めたくないし……あぁ、でも、もし本当にいい仲なら、あなたが死ぬ様をこの子に見せてあげるってのも悪くないわね」  なんでも無さそうに微笑む彼女の口から出た言葉に背筋がぞくりとした。 「怯えないでよ、冗談よ。人間を殺すのも面倒な時代なのよ。この子に利用されたことを憐れんで、治癒魔法を使ってあげたのも無駄になっちゃうでしょう」  魔法……ヴァンパイアに魔女もいるのだから、当然魔法というものも存在するのか。  腕を広げても背中の痛みも無く、彼女の言葉が嘘ではないのだと実感させられる。 「さ、いいからどいてちょうだい。」 「い、いやです……! エヴァンを離してください!」  内心怯えながらも両腕を大きく広げて彼女の前に立ち塞がった。 「エヴァンが好き? そんなに必死になって……そう図星なのね」  俺を見て彼女はくすくすと笑った。 「確かに地位も財力も誇示すること無く、知的で見た目も悪くはないけれど……それは見えている部分の話よ。この子はね、冷淡で無慈悲で……己の保身のためなら父親をその手に掛けられるくらい、残酷な男なのよ」  おかしそうに微笑みながら、淡々と彼女は話した。  「父親殺し」とヴィンセントが言っていた言葉を思い出す。エヴァンが自分の父親の亡骸を腕に抱いて死ぬのを見守ったという話も、辻褄が合うようだ。 「そんな、なにか事情が……」  彼が理由も無く、そんな事するわけがない。あれだけ、お父さんとの思い出を大事にして懐かしんでいる彼が、手にかけてしまうほどの理由があったはずだ。 「自分の地位と名誉を守るためよ。共に戦うと誓った父上を、私たち家族を裏切ったのよ、この子は」 「そんな! そんなもののためにエヴァンがお父さんを殺すなんてこと、絶対にない!」  人を傷つけたことを深く悔いて、人から距離を取っていた彼が、自分の利益のために人殺しに手を染めるなんて。そんなことあるわけない。 「事実よ。腐敗した政治家や王を打倒しようとした父上の覇道の邪魔をした。エヴァンが父上を殺したの。王の身を守った彼は英雄と持て囃され、残された家族は……私の大事な弟や妹達は反逆者として処刑されたわ」  彼女の頬を涙が伝い落ちていく。僅かに震える声や肩先に哀れさを覚えた。その話が真実だと裏付けるような響きを確かに感じた。 「……エヴァンをどうするの? まさか、殺すの?」  意識を取り戻さず脱力している彼に嫌な予感が頭をよぎった。 「そうね……出来ることなら殺してやりたいわ。いいえ、殺すつもりだったわ。そのために生きてきたんだもの」  さめざめと涙を流す彼女が不憫で仕方なかった。  エヴァンと会った頃に感じたような、深い悲しみと孤独が伺い知れた。脆く砕けてしまいそうな、闇に溶けて消えてしまいそうな彼女につい手を伸ばしていた。そっと頬を伝う涙を指先で拭うと、彼女は目を見開き、俺の手を払い除けた。 「……あなた変な子ね、こんな状況で」 「だって、泣いてる人は放っておけないよ。それだけ家族を愛していたなら、エヴァンのことも……きっと大事にしていたんでしょ?」  彼女はちらりとエヴァンを見つめ、そして頭を振った。 「遠い過去のことよ。今残っているのは憎しみだけ。この子には、必ず報いを受けさせるわ……ふ、こんな話するつもりなかったのよ。さ、坊やは眠る時間よ」  止める間もなく、彼女は俺の額に人差し指を当てると短く呪文のようなものを呟いた。  身体から力が抜けすっと意識が遠のいていく。どれだけ抗おうと逃れられず、まぶたが重く落ちる。 「どうか全て夢だと思って、あなたのような子を傷つけたくない……」 「いや、……エヴァ、ン……」 「これも、この子を仕留めきれなかった私の罪ね……さぁ、おやすみなさい」  ベッドに寄りかかって、必死で眠気に抗った。  月明かりの漏れる窓辺から身を乗り出し、彼女の赤毛が揺れる。そしてぐったりと身を預けるエヴァンを抱え直し、彼女は窓の外へ落ちていった。  また、守れなかったと苦い感情を抱えながら、意識が途絶えた。

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