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6章 後悔と潮騒と 1
次の朝、医師と看護師達のざわめく声で目が覚めた。
騒ぐのも不思議ではない。全治数週間かかると言われていた傷が一晩で消えたのだから。
そして、どこを見渡してもエヴァンの姿がなかった。
『どうか全て夢だと思って』
あの赤毛の女性の言葉を確かに覚えていた。
エヴァンが自分の父親を殺し、家族を裏切ったという話も――。
俺が想像していたよりもずっとずっと深い傷を彼は負っていたのかもしれない。
行きずりで一緒に暮らし始めた頃、俺を突き放そうとした彼のことを思い出す。その隠しきれないほどの孤独と寂しさを癒せたらと、なんともおこがましい望みを抱いてしまった。
医師に言われるがままに検査を終えて、結果が出るまでの間、ベッドに横たわっていた。
焦燥感でいっぱいだった。エヴァンがどんな扱いを受けるのか、想像したくもなかった。
ヴィンセントのことも気掛かりだった。拉致されて丸一日経ってしまっていた。
『だけど、自分の身を守るのも忘れないでくれよ』
父さんの心配そうな顔が頭に浮かぶ。
そうだ。ただの一般人の俺が関わるにしては大きすぎる問題だ。
王とか裏切りとか、例の古書だって、俺には理解しきれない――。
そう言えば、あの女性はエヴァンを連れて行っただけで本を手にしていただろうか?
詳しい事情には疎くても、この一連の事件の目的は古書だということは理解できていた。ヴィンセントがエヴァンに託し、エヴァンが誘拐された時、持っていなかったとしたら。
もし古書があるならば、それと引き換えにして身柄を解放できるんじゃないだろうか。
すぐに起き上がり、病室にあるサイドテーブルやエヴァンがもって来たカバンを物色する。あれほど大事なものならばきっと肌身離さず持っていたはずだ。
「失礼します」
カバンの中身をベッドの上に広げていると、病室のドアがノックされ、昨日事情聴取にきた捜査一課の四方 とアリスの代表だというナサニエルが顔を覗かせた。
「少しお話いいでしょうか?」
物を広げている姿に多少面食らいつつも、四方は険しい顔をして言った。
「エヴァンが……、エヴァンが連れてかれちゃったんです」
ざわざわと不安でいっぱいだった胸の内を言葉にしてみると、今にも泣きそうなくらい声が震えていることに気がついた。
「……連絡がつかないと思ったら、そんな」
どうやら二人の目的も同じようだった。
「連れて行かれたってことは、誰かが?」
四方の言葉に頷き、昨夜の女性のことを覚えている限り正確に伝えた。
「赤毛で長身の女性……エヴァンさんの家族と」
「特徴と魔法を使えるところからしても、きっと彼の姉のマヤだ」
ナサニエルは不安そうに眉を潜めた。
「血の審判後にエヴァン公爵の家族は処刑されたが、彼女だけは逃亡し姿をくらませていた」
「血の審判……いったい、なにがあったんです?」
マヤの発言を裏付けるような言葉に、あの出来事が夢でないのだと突きつけられる。
俺が問うとナサニエルは落ち着いた調子で続けた。
「今から400年程前、エヴァン公爵の義父であるセリウス・ドラコ公爵が反乱を起こした。そしてそれを発端に大規模な虐殺が始まったんだ――」
1600年代のヨーロッパ。
セリウスの一派はヴァンパイアの王の打倒を掲げ、貴族や王族を次々と殺していった。セリウスの養子であるエヴァンとマヤも当然その中にいた。元々、王の軍を指揮していた彼らに叶うものはいなかった。 さらに、その騒ぎを知ったハンター達によって、各地で一斉にヴァンパイア討伐も始まることになり、事態はより混迷をきたした。
一連の騒動で身分問わず多くの者の血が流れ、何万人もの命が奪われることになった。
「最終的にセリウスは王に刃を向けた。しかし、あと一歩というところで、それをエヴァン公爵が止めたんだ。主導者の死で反乱軍の勢いは弱まり、更に公爵は王命を受けてハンターとの戦闘を指揮、その働きによって事態は収束に向かったと聞いている」
ナサニエルの語った過去の出来事は想像以上に血塗られたものだった。
エヴァンにそんな背景があったなんてと、驚くばかりだ。彼のことを何も知らなかったのだと、改めて思い知らされる。
「俺は当時生まれてすらいなかったけれど、その悲惨な事件は今も語り継がれているよ。エヴァン公爵の英雄譚と共にね」
俺を励ますように、ナサニエルは微笑んでみせた。
エヴァンの辛い選択のお陰で大勢のヴァンパイアの命が救われたのだろう。けれど、間違いを犯したのも、家族を裏切ることになったのもまた真実なのだ。
英雄と呼ばれた彼の浮かない表情の理由がわかった気がした。
「……そして今から100年ほど前に、逃亡していたマヤが姿を現したんだ。彼女は、エヴァン公爵を誘拐、監禁し、殺害目的で数日間暴行を加え続けた……。公爵は命を取り留めたものの、その事件で心身ともに傷つき、今まで療養を続けてきたそうだ」
ナサニエルの話は全て、マヤが話していた内容と一致していた。けれどまさか、本当に姉弟のエヴァンの命を奪おうとしていたなんて、信じられなかった。
「……殺す、つもり、だったって言ってた、殺すとは言ってなかったから……」
一度手に掛けようとしたなら、二度目があってもおかしくはない。昨夜のあの様子からして、マヤの中にエヴァンへの憎しみが健在しているのは確かだ。どうしても悪い想像が頭を占めてしまい、不安を打ち消すように言葉を絞り出した。
ナサニエルは頷いてみせ、俺の肩に手を置いた。
「今はただ、彼の行方を調べよう」
エヴァンを守れなかった不甲斐なさや、強く抱いてしまったマヤへの同情心。過去の事件や因縁。焦りと不安が渦巻いていた。
けれど悩んでいても現状が変わるわけじゃない。今出来ることをするしかない。そう、なんとか自分を奮い立たせた。
「……例の古書をヴィンセントさんがエヴァンに託したんです。もし彼女が本を探しているんだったら、その本を交渉材料にできるかもって、思ったんです」
「たしかにな。それで、本はどこに?」
「ここには無くて、きっと俺の家です」
「よし探しに行こう」
四方とナサニエルと共に家へ向かった。
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