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「いらっしゃい」
玄関の扉を開き、ヴィンセントが迎え入れてくれた。
それもそのはずで、クラウディオの新居は、ヴィンセントとの同棲が始まるに伴ってのものだった。
すっかり元気を取り戻した彼は、以前にもまして眩しいくらいのいい男っぷりだった。
「レオ! よく来たな。暑かっただろ」
真っ直ぐ続く廊下の向こうの部屋から顔を出したクラウディオは、駆け寄ってくると勢いのままに抱きついてくる。彼の晴れやかな笑顔に気分がやわらいだ。
「クラウ! 元気そうでよかった」
「おかげさまでね」
「あ、そうだこれ食べて」
引っ越し祝いで用意した果物の詰め合わせ。食べるのが好きなクラウディオなら喜んでくれるだろうと思って選んだものだった。
「わざわざありがとう! 冷やして食後に食べよう」
「そうだね。さ、中に入って」
「お邪魔します!」
二人の新居は、普段近付く機会もないいわゆるタワマンというやつの上層階で、中もかなり広々としていた。
日の暮れ始めた都内を見下ろす、大きな窓のあるリビングダイニングからの景色は絶景だった。木目調の家具で揃えられ、革張りの大きなソファと落ち着きのある内装も魅力的だ。
部屋の奥のゆったりとしたアイランドキッチンには作りかけの料理が見え、いい香りが広がっている。
料理していたのはヴィンセントらしく、カウンターの前に立ち、手慣れた様子で包丁を握った。
「レオはお酒平気だっけ?」
どうやら調理しながら二人は先に飲んでいたらしい。
「うん。好きだよ」
スツールに腰掛けながら応えるとクラウディオはグラスにワインを注いで俺の前に差し出した。
「じゃあ、はい。今日はゆっくりしていって、乾杯」
グラスを傾けながら3人で近況を語り合った。
ヴィンセントは日本への移住を決めて、ひとまずは翻訳の仕事をしながらクラウディオの側にいることにしたそうだ。
「少し焦りすぎていたんだと思う。クラウの意見もまともに聞かずに、ただ、人間と対等になれればそれで苦しませずに済むって決めつけて。もちろんその方がいいのは変わらないと思う。クラウが何も気にせずにただヴァイオリンを弾いていける世の中が理想だよ。今後のことを考えても」
ヴィンセントはそう言って、肩をすくませた。
「だけど、何よりも今は手の届くところにクラウがいることが幸せでたまらないんだ」
ヴィンセントの視線がクラウディオを捉える。嬉しそうにはにかんでグラスを置くと、クラウディオは目を瞑ってみせ、二人はそのままキスをした。
ほんの少しだけ寂しさを覚えながらも、二人が幸せそうなことが本当に嬉しかった。
ぐつぐつとお湯が沸き立ち、ヴィンセントは人数分のパスタを鍋にいれた。
「ヴィンセントの言うように、活動できる時間は限られているから、私もそろそろ仕事に復帰しようと思っているんだ」
クラウディオは、複雑そうな表情を浮かべ、グラスを傾けてワインが揺れるのを眺めながら続けた。
「彼も……彰紀も私の音色が好きだと言っていた……。実は彼から手紙が届いてね、自分のせいで仕事に支障が出たらと、心配してた。逃げることは簡単だけれど、頑張ろうって思うんだ。私に出来ることは、せめて、彼と夢見ていたこの道を諦めずに進むことだと、そう思うから」
腐るでもなく踏みとどまるでもなく進み続けると決めた姿が眩しかった。
プラチナブロンドの髪の毛をそっと耳にかけて、クラウディオは、澄んだ青い瞳を俺に向ける。
「レオはどう? 最近は」
若干の心配を含んだような優しい声色の彼に肩をすくめて見せた。
「俺は変わらずだね。仕事行って、家に帰って……たまに友達や家族と過ごして」
ワインを一口のみ、気を落ち着かせようとするが、まだ難しい。
「一人で家にいるとやっぱり寂しい。エヴァンのことばかり考えてしまう」
上手く笑えず、そっとグラスをカウンターに置いた。
「レオ……」
クラウディオは同情するように眉を下げて、俺の名前を呼ぶ。
「そんなのだめだよね。もっと前向きに過ごさなきゃって思うのに、でも、どうしても寂しさは消えなくて……エヴァンと出会う前はどう過ごしていたのか、わかんなくなっちゃったんだ」
ばあちゃんが死んでしまった直後はかなり寂しかった記憶はあるが、ここまで一人の時間が苦になることなんてなかった。
静かに受け止められないくらいに、彼を失った喪失感は大きかった。
「よくわかるよ」
黙って話を聞いていたヴィンセントがそうひとこと言い、俺を見た。
「ひとりじゃないから、いつでも私を頼って。エヴァン様の代わりにはなれないけれど、私だってレオのこと大好きだから」
膝の上で握りしめていた手をクラウディオに握られて、堪えていた涙が滲んだ。
「二人ともありがとう」
たった一時でも彼と過ごして幸せだった日々。
1日中、彼の傍に居られて心の底から幸福を感じられた。
いつか時が流れれば今より悲しまずに済む日が来るんだろうか。
エヴァンのことを忘れてしまう日が。
それならいっそ、苦しんでいても覚えていたい気さえする。
そんなこと、やはり彼は望んでいないだろうけれど。
キッチンタイマーが鳴り、ヴィンセントが鍋からパスタを引き上げて、フライパンのソースの中に入れていった。
「さ、そろそろ食事にしよう」
ヴィンセントの明るい笑顔になんとか微笑み返す。
「彼の料理は本当に美味しいんだ、レオも気に入るといいな」
クラウディオもそう声を弾ませて、美しい瞳を細めた。
胸を占める苦しみや切なさを受け止めて、励ましてくれる二人の存在がありがたかった。
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