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両目を瞑っていると、やけに心臓の音が耳についた。
そんなわけ無いと思いつつも、期待しすぎたら傷つくだけだと思いながらも、思い浮かぶのは彼の顔だけだった。
血の気のない青白い肌。しっとりとした長めの黒髪や、深い海のような青い瞳、大きくて骨ばった手――。物静かでアンニュイな雰囲気に不器用な優しさが潜み、俺を気遣っていつも助けてくれた。
どのくらいたっただろう、鼓動が速いまま収まらず、酔いがまわったのか身体が熱くなってきた。
がちゃりと遠くで玄関の扉が開く音がして、きつく両手を握り合わせた。
「さぁ、目を開けてレオ」
ヴィンセントの声がして目を開けて、背後のリビングダイニングへの入口のアーチを見た。
しかし、そこには誰もいなかった。
「……っ」
わかっていた。
いつ会えるかもわからないからと、彼がそう言っていたんだ。
彼には役目があって、簡単に戻って来られるわけもないのだ。
おずおずと困ったような顔をしてヴィンセントが顔を覗かせた。
隠しきれない落胆を誤魔化すように、無理やり笑顔を浮かべてみせた。
「いいんだヴィンセントさん。俺だって、わかってるんだ簡単に、戻れ、ないって……っ」
笑おうとしたのに、平気だと伝えようとしたのに、涙が溢れてきてどうすることも出来なかった。
堪えていた寂しさや苦しさが一気に胸を締め付けて痛む。抑えきれない涙がぼろぼろと零れ、膝に落ちて服に染みを作っていった。
「だけど、……だけど、会いたかったな、もう一度くらい」
誤魔化しようもない上擦る声のまま、続けた。
「こんなに、自分が未練がましい人間だなんて知らなかったんだ。ぜんぜん忘れられないんだ。朝目が覚めたら、またいつもみたいに……そこにいないかなって、思っちゃうんだ」
低い声でおはようと言って、困るくらいにキスをして、ひんやりと心地良い指先で頬を撫でて――。
そんな思い出に浸りながら余計に孤独を感じる日々を幾日も繰り返していた。
「さみしくてさみしくて仕方ない。会いたい。エヴァンに会いたいよ……」
とうとう言葉を紡ぐ事もできないくらいに涙が溢れた。しゃくりあげて、自分でも酷い泣き方だと思うけれど、止めようとしても止められずに、次々に涙が零れ落ちた。
「ほら公爵閣下、愛しの君が泣いてるのに胸も貸さないなんて男としてどうなんだよ」
ヴィンセントの声につられて顔を上げると、おずおずと長身の男性が現れた。
ぼやけた視界の中に浮かぶ、血の気のない色白な肌に、しっとりとした黒髪。
「……うそ、エヴァン?」
心臓がどくんと高鳴って、ふらつきながら立ち上がった。
「レオ」
ずっと聴きたかった低い優しげな、その声が俺の名前を呼ぶ。
「っ……エヴァン!」
立ち上がると思っていたよりも酔いが回っているらしく、足をもつれさせながら彼の傍に駆け寄った。
近くまで行き、ごしごしと服の袖で涙を拭いて彼を見上げた。
眉根を寄せて深い青色の瞳が俺を見下ろしていた。
たしかにエヴァンだ。
もう会えないと思っていた彼が目の前にいる。
「すまないレオ……」
謝る彼に何度も首を振って見せ、ぎゅっとしがみついた。
そっと抱き寄せられて彼の香りに、ひんやりとした体温に、また止めどなく涙が溢れた。
「王から直々に日本での調査を任されたんだってさ」
隣でくすりと笑うヴィンセントがそう言った。
「そんな……じゃあまた、日本にいるの?」
胸に手をついたまま、ぱっとエヴァンを見上げた。
「あぁ、しばらくな。いつまでいられるかは、まだわからない」
エヴァンはぐちゃぐちゃの俺の頬に手を添えて涙を拭う。
その困ったような微笑みに、素直には喜べなかった。
「また、戻らないといけないかもしれないし、どうなるか定かじゃない。それに俺の近くにいたら、きっと危険が……。そう思って、お前に会うかどうか迷っていたんだ」
てっきり、再び一緒に過ごせるものと思って高揚していた気持ちが沈んでいく。
俺に会うのを迷っていただなんて、そんなの聞きたくなかった。
「そうそう、毎日煩悶として日本に戻って来てからずーっとそわそわして、物思いに耽って、仕事が手についていないんだエヴァンは」
暗い表情のエヴァンの肩に手を回して、ヴィンセントがそう言った。
「おいっ」
珍しく感情的にエヴァンは声を荒げた。
「ルブロ・リブラにレオの身辺を見張らせて、危険がないか報告を貰ったりさ」
「……ヴィンセント、お前、そこまで知って」
焦るエヴァンに向かって、ヴィンセントはウインクして見せる。
「スブ・ソーレでも随分消沈していたらしいじゃないか」
さらなる追撃をくらい、呆気に取られるエヴァンはヴィンセントを睨んだ。
そして一拍置いて、頭を抱えてため息をついた。
「あぁ、デュラック伯爵か……」
「ご明察。けど、向こうでの様子をベアトリス様に聞いて、気持ちが固まったんだ。僕はレオに恩返ししたかった。彼のようにお節介をしてみても良いかなってね」
俺達の様子を眺めていたクラウディオも近くに来てヴィンセントの横に並んだ。
「私も二人はお似合いだと思う。ヴァンパイア同士じゃないから尚更、時間を大事にしないと、今を大事にしないと」
話を聞くに、エヴァンは随分思い悩んでいたようだった。
俺と離れた寂しさよりも、俺を守ることを優先して距離を置いていたのだ。
俺としては、何があったってエヴァンと一緒にいたい。
けれど、あの事件の時のように、俺がエヴァンの弱点になって彼を困らせないとも限らない。
なにより、そこまで俺を思ってくれていたなら、それで満足しないといけないんじゃないだろうか。
何も言わないエヴァンからそっと、身体を離した。
決めたじゃないか、エヴァンが戻るまでの間って。邪魔にはならないようにするって。
一歩引いて更に距離を置こうとする俺の手を、エヴァンが握って引き止めた。
「すまない、すぐに会いに行けなくて」
やっと振り絞るように出された声は、いつもよりも弱々しく聞こえた。
「迷っていたんだ。俺といるより、きっと他の誰かと一緒になったほうがずっと平穏で、お前も幸せだろうと、そう思っていたんだ」
一度止まりかけた涙がまた滲んできて、頬を伝い落ちていった。
「だから、余計に振り回すより、今会いたい気持ちを我慢してお前の未来を守るべきなんだって、自分に言い聞かせていた」
「俺は……」
それでも、いいと。
エヴァンが真剣に思い悩んだ結果ならそれでもいいと……言わなくちゃ、彼がこれ以上苦しまないように。
そう思うのに、喉の奥がぎゅっとしまって言葉が出てこない。
本当は、そんなこと……。
「好きだレオ」
きつく締め付けられていた胸が、その一言でじわりと緩む。
「ずっと……四六時中、お前のことばかり考えていた」
涙を拭われて、柔らかく微笑む彼の姿が見えた。
「……俺も、エヴァンに会いたかった……寂しかった」
言い終わるのを待たずにエヴァンは俺を強く強く抱きしめた。
腕の中で見上げると、青い瞳が優しく細められる。
「レオ、ただいま」
彼の首に手を伸ばしそっと引き寄せ、キスをした。
ひんやりした体温も、柔らかな感触も確かにここにある。
「おかえり……おかえりなさい、エヴァン」
ずっと見たかった、寂しそうに孤独の中にいた彼の笑顔を。
俺に向けられる優しげな微笑みを。
見上げると、くしゃりと目が細められる。
恋しさや寂しさを押し込めていた心を一瞬で溶かすような、眩しいくらいの笑顔だった――。
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