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 美術館を出て、予約していた店に向かい一緒に食事をした。魚より肉が好きなのは変わらないようだった。それから食事の匂いを嗅ぐ癖も、あの頃のまま。  昔話に話を咲かせながら、和やかな時間が過ぎた。  食後は、ウィンドウショッピング。服を選びあって、お互いの好みを確かめた。 「やっぱり落ち着いた雰囲気の服装が似合うね」 「そう?」  ヴィンセントはスーツにカジュアルな格好まで、なんでも着こなせる。服装一つですら相手に合わせて、場面によって使い分ける。それこそただのツールの一つで好みやこだわりなんか、無いみたいに。  そんな彼を見ているのは、恋人として嬉しくもあり、小さな不満でもあった。  ハンガーラックから淡い緑色のシャツを手に取り、ヴィンセントにあてがって眺める。彼の柔らかなブラウンの髪の毛にも木漏れ日を思わせるオリーブ色の瞳にもよく合う色だ。 「青もいいけど、淡い緑もよく合う……って、これじゃあ私の好みを押し付けてるな」 「クラウにかっこいいと思ってもらえるのが一番うれしいよ」 「また、そんなこと言って」  ゆっくりと服や雑貨を見て回った。  歩調の合わせ方、何気ない仕草や相槌一つ一つが、私を特別に思ってくれてるのだと感じさせる。一緒にいればいるだけ、この人が好きだと思う。  それと同時に、同じように彼も感じてくれていたらいいのにと、つい欲が出てきてしまう。  買い物もそこそこに、休憩がてら行きつけのカフェに入った。落ち着いた雰囲気で入りやすく、何よりこだわった季節のケーキなどのスイーツが美味しく気に入っていた。  コーヒーとフランを選んで注文した。濃厚なカスタードにさっくりとした生地がよく合う、シンプルながらも好きなスイーツの一つだった。  味そのものも好きだけれど、私にとっては特別なお菓子だった。 「……昔、記念日に作ってくれたよな」  私と彼が永遠の誓いを立てた10月に、毎年お祝いだと言って料理やお菓子を作ってくれていた。当時は山奥にあるヴァンパイアの王都スブ・ソーレに一緒に住んでいたのもあり、甘いものを用意するのも一苦労だったはずなのに。  懐かしく思いながらひとくち口にすると濃厚な味わいが広がった。  思い出に浸りながら上機嫌な私の一方で、ヴィンセントは顎髭を指で撫でながら眉を潜めた。 「記念日って……まって、それって失敗して甘くなりすぎたときのことじゃないよね?」 「それ以外にないだろ」  即答すると、ヴィンセントは珍しく恥ずかしそうに肩をすくめてみせた。 「こんなに経ってるのに失敗を覚えられてるなんて」  苦笑する彼の反応についつい頬が緩んだ。 「まぁ、それだけじゃなくて、嬉しかったんだよ。本当に」  ついフランを見かけると食べたくなってしまうのは、そんな彼の小さな失敗や愛情を想起していたからに違いない。 「わざわざ材料をかき集めて、練習して……なんでもない風にいつもやってのけるけど、裏では努力してる。いつだって私の為に尽くそうとして、私の為ならなんでもしてしまう……そんなところが好きで好きで仕方ない」  ちらりと彼を見ると、穏やかに微笑んでいてくれる。 「思うんだ。私は足りない部分が多くて、気づけば人に甘えてしまうところがある。足りない自分を埋めるだけでいっぱいいっぱいになってしまう。だけど、ヴィニー、あなたの横でなら、その穴を埋めてもらえる安心感がある。もっと人に与えられるような、そんな人になれるんじゃないかって、そう思うんだ」  誰かに縋り付いたり求めるだけじゃなく、彼のように心を配れる人に。  きっと昔足りなかったのは、そんな当たり前にも見えることだから。 「クラウ……ただそこにいて、君が微笑んだり、悩んだり、泣いたり怒ったり……そんなことだけで僕は十分満たされているんだ。その上、なにかを望むのは欲張り過ぎなんだよ」  アイスコーヒーを一口飲み、彼は静かに言った。 「そんなことない。もっと欲張るべきなんだ、ヴィンセント」  無償の愛なんて崇高なもので形作らなくたっていい。綺麗な感情も汚い感情も全てぶつけてくれたら、どんなにいいか。 「ねぇ、いいんだよ。あなたが私を今の形に変えたけれど、それはあなたが背負う罪なんかじゃないんだ。むしろ感謝しているんだよ。今ヴァイオリンを弾けるのも、今こうして思い出のスイーツを口にできるのも、あなたのおかげだから。もちろん、またこうしてじっくりとあなたと話せているのも、ね」 「あぁ、クラウ……僕は本当に幸せものだよ」  ヴィンセントはぼんやりとグラスを眺めながらしばし逡巡し、突っかかった言葉を口にするように、ぼそぼそと続けた。 「僕はただ、すがりつくようにしか生きられないだけなんだ。一つの目的の為にひたむきでいれば、それ以外を見なくて済む。そうやって長い間生きてきたんだ。だけど、まるでそこに差し込んだ光のようだった。君は僕の光で僕の空気だ」  顔を上げた彼と見つめ合いながらどちらともなく微笑む。 「君がこんなにも僕のことを考えてくれているってその事実だけで胸がいっぱいだよ」  いつもならきっと飲み込んでしまう言葉を、誤魔化してしまう気持ちを伝えてくれたのだと思った。  次にフランを口にする時はきっと、今日のことを思い出すんだろうな。

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