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 時間はあっという間に過ぎて、すっかり夜の気配が漂い始めた。 「ちょうどいい時間に来れたね」  うだる暑さは残ったままだが、肌を焦がすような強い日差しは弱まり、辺りを静かに闇が包み始める。  タワーの展望台からは、ちょうど地平線に落ちていく太陽の光が雲間に覗き、燃えるような赤やオレンジ色に空を染めていた。  そんないい時間帯なのもあり、かなり混み合っていた。私達は人混みの中で近くに寄り添いながら景色を眺めた。 「ありがとうクラウ。今日はすごく楽しかった」  ヴィンセントは、そう静かにフランス語で話し始めた。  昔から好きだった。こっそりと二人だけの会話をするような特別な習慣だ。  目配せして微笑み合いながら、私も彼に倣って続けた。 「どういたしまして。でも、あなたの好きを見つけられたのか……。結局私が連れて行きたい所に連れて行っただけになった気がする」 「ううん。そんなことない」  目線を窓の外に向けたまま、ヴィンセントはそっと手を握ってきた。 「君と離れて、遠くから君を想えれば充分だと思っていた。それが……当時のもっと近くにいた時の事を思い出して、君の近くで君の為になにか出来ることの幸せを、改めて思い出せたよ」  私が彼との思い出を大事に抱えているように、彼も遠い遠い記憶を少しでも感じてくれたのだろうか。  ヴィンセントを見上げると、彼は私に顔を向けてやや不安そうに目を細めた。 「わがままになってもいいかな、君にふさわしい男は僕だと主張出来るくらいに」 「そんなの……、とっくの昔にあなた以外いない」  彼以外の人と過ごしてきた時間は短く無い。それでも隣にいてこんなにも満たされて、永遠に一緒にいられたらどんなに良いかと思ってしまうのは、彼の他にはきっといなかった。  初めて会ったあの日から、心を奪われてしまったんだ。  あんなにも思い悩んで、苦しんで悲しめたのもきっと、あなただったからなんだ。  こうして、続けるために変わりたいと思えるのもそう。 「やっぱり僕の好きなものはクラウだな。それと君の演奏も、今も昔も変わらず好きだよ」  ヴィンセントは穏やかに、恥ずかしげもなくそう言ってのける。  握られた手をぎゅっと強く握り返した。 「来週防音室の工事もやっと終わるんだ」 「うん、そうだね」 「そしたら、毎日でもあなたのためだけに弾くよ」 「わお、そんな贅沢いいのかい」 「あぁ、あなたのために曲を書いたっていい。『愛しき人ヴィンセント・コンティに捧ぐ』って」  自分で言いながらつい笑ってしまう。  冗談を言って笑いあって、そんな幸せな時間が積み重なって行く。  穏やかな一日が過ぎ去っていく。  これから続く日々が毎日こうでは無いとしても、きっとまたと思える確信が嬉しい。  空の色は段々と群青に染まり、街の明かりが煌めき始めていた。  一緒にいられることの幸せを噛み締め、充実した気分のまま帰宅したのはすっかり日が落ちてからだった。  我ながら今日のデートは大成功だったのではと満足感に浸り、かなり浮かれていた。  ヴィンセントとの思い出の詰まったものを巡る小さな旅は、私にも改めて「好き」を再確認させてくれた。自分でも知らず知らずのうちに、ずっと忘れようと努めていたはずなのに、それでも確かに彼への想いはそこにあり続けていたのだと。  ヴィンセントには恥ずかしくてとても言えないが、過去の贈り物のグラスやドライフラワーの花束なんかも、結局捨てられなくてベアトリス様に預けていた。スブ・ソーレに戻るたびに自然と彼を思い出さずにはいられなかった。  見るたびに切なさと、どうしようもない苦しさが襲っていたが、きっと次に帰るときは違う感情で見られるはずだ。  時間が過ぎるのを惜しく思いながら、我が家の玄関の扉に手をかけた。 「……!」  扉を開けると暗い室内の中、淡いろうそくのような照明が揺らめいて廊下の足元を照らし出していた。  朝、家を出る前は決してなかった光景に驚き、思わず立ち止まってしまう。  点々と廊下に続く柔らかな光は、明かりの漏れ出す寝室へと続いている。  幻想的な雰囲気に気を取られているとくすりと微笑む声が聞こえ、後ろに立つヴィンセントを振り返った。 「なんだよ……こんな、いつの間に」  淡い光の中にも、にっこりと満足そうに目を細める彼の表情がよくわかった。  疑問も戸惑いも湧き上がるが何よりも胸が高鳴った。  サプライズ好きな質なのはよく知っているが、まさか今日用意しているなんて思いもしなかった。  ドキドキしながら靴を脱ぎ、その光をゆっくりとたどって行った。  そっと明かりのついたままの寝室を覗き込むと、ベッドの白いシーツの上に真っ赤なバラの花束が置いてあった。  それだけでも嬉しいサプライズだというのに、近付くとそれだけじゃない。 「ヴィンセント……これ」  花束の横、小さな箱に指輪が輝いていた。  呆気にとられ驚く私の手をそっと取って、ヴィンセントは跪いて私を見上げた。 「僕達は一度は誓いあった仲ではあるけど、改めて伝えたくて。クラウディオ、これから先どんな苦難が待ち受けようと、死が二人を分かつまで……僕と永遠に歩んで欲しい」  その言葉を聞きながら、思わず感極まって涙が溢れていた。  「……嬉しい」  いつもそうだ。彼は、ずるいくらいに私を驚かせて、そして誰よりも特別でいさせてくれる。 「もちろんだよ」  両手で彼の手を握りしめて言うと、彼は立ち上がり、もう一方の手を伸ばして私の涙を拭った。  その手のひらに縋り付くようにして、それでも笑顔でヴィンセントをまっすぐと見つめた。 「私は、まだまだ弱いし不安になってしまうし、足りない部分もあるけれど……同じ気持ちだよ。あなたの隣にずっといたいんだ。愛してるヴィンセント、誰よりも愛してる」 「僕も愛してるよ、クラウディオ……」  抱きついて何度も何度もキスをした。  促されて指輪をつけあい、眺めながらうっとりしていると、後ろから抱きしめられた。  そのまま首にキスを落とされる。柔らかな唇の感触と肌を撫でる熱い吐息に肩を竦めると、彼の優しげな微笑みが耳元で聞こえた。 「今日は僕のために、たくさん考えて準備してくれてありがとう。モンシェリ……」  囁くような甘い声に心臓が跳ねた。  胸を焦がすくらいに想いが膨らむ。  どうしてこの人は、こんなにも素敵なんだろう。  一生どうやったって叶いそうにないくらいに。  顔を彼に向けて、また唇を重ねた。舌先を擦り合わせ、甘い刺激に思わず吐息が漏れた。

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