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マイ・アイディアル 2

 実流のアパートへ帰る道すがら、ずっと真理の熱を感じていた。黙って先を行く真理の唇にキスをしたい。たくさんの小さな幸せをくれるその唇に、甘い言葉を流し込みたい。  実流の築四十年の安アパートへ着くと、実流はギターケースを大切そうに壁へ立てかけた真理の背中に抱きついた。自分を安心させてくれる、広くて温かい背中。 「真理がいるから、鎌田に心からおめでとうって、言えたんだよ」  真理の唇から熱い息が零れた。真理が声もなく笑う気配に、実流はほっとする。 「だから、NewTubeのコメントなんか気にしなくてもいいんだ」  真理が身体を裏返して、実流を抱きしめた。自分を包む空気が気持ちいい。真理の肩に頭を載せて熱を身体に沁み込ませる。  真理は実流の耳に顔を寄せると、耳たぶの下をきつく吸い上げた。 「くすぐったい、くすぐったいっ!」  真理からはじけるような笑い声があがる。身体に甘い電流が走って、ガクガクと膝が笑う。 「実流は感じやすいなあ!」 「こういうことはベッドのなかでやって!」  自分は今きっと全身が真っ赤で、顔もぐしゃぐしゃだろう。骨に響くほど感じてしまう恥ずかしさに胸がキリキリする。 「じゃあ、早くベッドに行こうか」  実流は、いつか真理の弱った顔が見たいと思いながら、恋人の手首を掴んで部屋の奥へ向かった。  真理は、自分が鎌田に好意を寄せていたことを見抜いた唯一の人間だった。  最初実流は、大学のゼミのなかでもさほど親しくない真理から話しかけられて焦りを感じていた。自分は感情がすぐ表に出るタイプで、嘘をつくのも下手だ。自分がそんなにわかりやすく鎌田を見ていたのだろうかと、内心真理を恐れていた。  真理と鎌田が仲良くなって以降、実流は真理が優しい人間だと気づいた。ゼミでも説明に困っている学生にさりげなく声をかけたり、飲み会の幹事を率先して引き受けたりしていた。  ゼミの飲み会のとき、真理が酔い潰れた女の子を家に送っていった。その女の子は失恋したばかりで、日本酒を飲んで悪酔いしたのだ。  飲み会の幹事だった真理がタクシーで女の子を連れて帰った。  ――あいつ、うまくやったよな。  ゼミの男子生徒が耳障りな笑い声をあげた。  次のゼミの日、誰かが真理にあの夜どうなったかを聞いた。  ――何もないよ。アパートまで送り届けただけだ。  ――せっかくヤれるチャンスだったのに。  ――好きでもない人とチャンスがあっても、嬉しくないよ。  それを聞いた実流は漠然と、真理は将来いい夫になるだろうと考えた。  そんな真理が前から自分を好きで、自分を見ていたと思うと、実流は身体の奥をくすぐられているような気分になる。  鎌田に思いを寄せていたころから、真理のやわらかな気配を感じていた。  鎌田はボート部の主将で、華やかな甘い顔立ちと鍛え上げられた体躯で、女子学生から好かれていた。付き合う女の子が途切れたこともなかった。  鎌田は音楽が好きで、学生時代からミュージシャンとして活動していた実流を気に入っていた。  ――ビョークがさ、チェット・ベイカーをオルタナでやったら面白いんじゃないかって言ってたけど、確かに歌い方が似てるよな。  鎌田のひとことで、実流はチェット・ベイカーというジャズシンガーを知った。甘く囁くように歌うチェットから、真理は技巧を取り去った素直な歌唱法を学んだ。  ――チェット・ベイカーの歌い方を試してみようと思うんだ。  学食のカフェでそう言った実流に鎌田は、「羽田は声がいいから、合ってるよ」と笑った。  ライブのチケットをさばくのが苦手な自分の代わりにチケットを売ってくれたのも鎌田だった。明るく誰にでも物怖じしない鎌田が、実流の憧れとなった。  歌を作らなければうまく息ができない自分とは対極の、太陽のような人間。実流はその光に照らされているだけで満足だった。無意識に、それ以上望んではいけないような気がした。  真理はボート部のレガッタの応援に行ったり、実流のライブを観に来たりしていた。真理は鎌田のように話し好きではなかったけれども、よく人の悩み相談に駆り出されていた。静かで誠実な真理に好意を寄せる女の子もいたが、真理は女の子に興味がないようだった。当時の実流は、真理を浮き世離れした、欲望の薄い人間だと思っていた。  が、真理にもきちんと欲望があって、それは自分に向けられていたのだと、実流はあとで思い知ることになる。

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