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マイ・アイディアル 5

 夕方、実流は入谷にある繁流のマンションを訪れた。繁流は実流の十歳上の兄で、今年で三十四歳になる。四年前に結婚して、現在二歳の男の子がいる。 「久しぶりだな実流。お土産買ってこなくてよかったのに。まあ、ついでだから飲むか」  繁流は実流が持ってきたビールのプルトップをせわしなく開けている。童顔で細い体つきは弟と同じだが、バイタリティがあってフットワークが軽いところは似ていない。 「料理まだ出ないから、先にやってて」  義姉がキッチンから声をかける。上品な顔立ちの、穏やかな姉だ。甥の南は子供部屋で寝ていて、実流が覗いたときは扇風機の風に吹かれてうとうとしていた。  ふっくらとした、丸い手。この世のすべての幸せを掴んでいるような、かわいらしい手だった。 「音楽、がんばってるみたいだな」 「うん、お店で演奏したり、ライブやったりしてる」  もともと音楽は繁流が子供のころに嵌まった趣味で、最初のアコースティックギターは繁流からのお下がりだった。 「朝早くに友達から電話がかかってきて、実流を紹介してほしいって言われてさ」 「どんな人?」 「企業のサウンドロゴや、ラジオのジングルを制作してる。そいつに実流の話をしておいたんだけど、深夜ラジオのジングルをお願いしたい、薄謝だけど、どうですかって」  実流の心臓がどくんと鳴った。ジングルとはテレビやラジオの場面の繋ぎに入るサウンドで、番組の顔になることも多い。自分の声がラジオから流れるのだと思うと、実流の心は跳ね上がった。 「デモテープとか、送ったほうがいいのかな」 「NewTubeで動画を観てるから、直接会って話がしたいって言ってたよ。今日の朝にアップされた動画が、深夜番組にちょうどいいって話だった」  真理のために歌った『マイ・アイディアル』が、誰かの心に響いたのだ。気分がふわふわと高揚してくる。 「実流くん、たくさん食べていってね」  鶏の唐揚げやサラダなど、義姉の料理がテーブルに運ばれてくる。 「南、起こしたほうがいいか?」 「そうして。みんなでいっしょに食べよう」  繁流はビールを置くと、立ち上がって子供部屋へ向かった。  身体も心も満たされて電車で帰宅する途中、実流はふと、真理のことを思い出した。  真理もあの動画を観てくれただろうか。スマートフォンを開いて真理のメッセージを確認したが、新規メッセージは一件もなかった。スマートフォンを鞄にしまう。  繁流の家の温かい風景が頭をよぎる。優しい妻と二歳にしてはおとなしい子供がいて、兄は幸せそうだった。  ほんとうは、真理もきちんと家庭を持つべき人間ではないだろうか。甥の丸い手を思い浮かべると、心臓の底が締めつけられる。  自分と付き合うという行為は、世間一般の男の幸せがなくなるということではないだろうか。  そんな重大な人生の選択を真理にさせてしまっていいのだろうか。  今は付き合い始めて一ヶ月ほどで、真理も周りが見えていないころだろう。が、真理はほんとうに一生、自分だけを見て生きてくれるのだろうか。  拡声器で真理は自分のものだと言いたいという欲望を思い出す。  真理を繋げておくすべがないことが、自分はずっと不安なのだ。

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