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マイ・アイディアル 6

 繁流が紹介してくれたのは、ラジオのジングル制作会社の社員だった。  次の日、実流が新宿の制作会社を訪れると、繁流の大学時代の同期だという渡部が出迎えた。渡部は丸顔に丸眼鏡をかけた、剽軽な感じの男だった。 「『ミッドナイト・サイト』という、午前二時から二時間の音楽番組です。オールディーズなどを流す深夜番組なんで、やわらかい声質のタレントを探していたんですよ」  自分はまだタレントと言われるほどネームバリューのある存在ではない。応接室のソファで身体を硬くする。 「羽田さんの都合に合わせて、スタジオを手配します。契約書といっしょにスコアは本日渡しておきます。収録はいつがいいですか?」  実流が来週の水曜日は空いているというと、収録はその日になった。 「それでは、当日よろしくお願いいたします」  実流は渡部に負けないよう、深々と頭を下げた。  真理は仕事が忙しいようで、実流は数日、真理と顔を合わせることができなかった。ようやく通話アプリで顔を見られて、胸がドキドキする。 「ジングル、おめでとう。ラジオから実流の声が聴けるんだね」 「番組の合間に一瞬だけどね」  スマートフォンの小さい画面でも、真理の元気がないのがわかる。 「『マイ・アイディアル』もありがとう。あの夜すぐに撮ってくれたんだ。すごいなと思ったよ」 「なるべく早く届けたくて」  実流が顔を赤くする。照れが伝わったのか、真理の頬にも赤みが差す。  兄がジングルの話を持ってきてくれた経緯を説明する。真理は思わしげに宙を仰いだ。 「やっぱり実流は東京にいたほうがいいんだなあ」  実流は首を左右に振った。 「僕がもっといい曲を作って、大阪でも活動できるようになるよ」  真理が痛みをこらえるような顔で笑う。 「がんばれよ。俺もがんばるから」  真理は、実流の顔が見られてよかったと言い残して通話アプリを切った。安アパートの自分の部屋にひとり取り残される。  自分には金銭的な余裕がないから、遠距離恋愛で真理に負担をかけている。  実流は真理のそばにいたいと、ふと思った。真理の調子が悪いときは、直接顔を見て真理を慰めたい。  自分がもっとアーティストとして売れていれば、大阪でも活動できるのに。  真理を追いかけて、日本中どこにでも行けるのに。  とりあえずジングルの仕事を成功させよう。実流は鞄からスコアを取り出すと、発声の練習を始めた。  水曜日、『ミッドナイト・サイト』のジングルの収録は一時間ほどで終わった。  薄暗く狭いブースのなかで、実流は軽い緊張感を覚えながらマイクへ向かった。  恋人の寝顔に話しかけるようにジングルを歌う。  口元に浮かぶ真理の微笑みを温かく包み込む。やわらかな青みを帯びた遠い水平線の風景が、実流の心の奥に浮かんだ。 「いい作品ができそうです。ありがとうございました」  実流がコントロール・ルームに戻ると、渡部はジングルを納品したらデータを郵送すると告げた。 「羽田さんの声質、きれいでいいですね」 「こ……友人からは、シーグラスみたいな声だって言われます」 「シーグラスって、何ですか」 「海で波に洗われて曇りガラスになった瓶の欠片です」 「なるほど、ちょっと曇った質感なんですね」  渡部は耳に当てたヘッドホンでテイクを確認すると、また機会があったらお願いします、と実流に笑いかけた。

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