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第36話
瞬きを数回し、ぶれてしまった視界のピントを合わせる。と、その中心に映る、男の左手。ファイルを持ったその手を辿って上へと視線を動かせば、先生の横顔が見えた。
痩せ型の長身。清潔感溢れる短髪。銀縁眼鏡。行き先を捉えたままの眼は細くつり上がり、無表情も手伝って、何処か冷たい印象を与えていた。
そのせいだろう。横に広がって通行の邪魔になっていた生徒達が、先生の存在に気付くや否や、スッと壁側に避けていく。
「……」
ゾク……
腹の底から沸き上がる、妙な高揚感。
指先を痺れさせる、甘い快感。
普段味わった事のない其れ等が麻薬のような物質に作り変えられ、血流に乗って身体中を巡り……脳内を麻痺させていく。
……いやだ。
こんなの、僕じゃない。
咄嗟に目を伏せ、俯く。
ギュッと握り拳を作り、手のひらに爪が刺さる痛みを感じながら必死に耐える。
二列並んだ棟の中央にある渡り廊下。そこを渡り、空き教室へと向かう。
人気のない場所に加え、どんよりとした天候のせいもあって肌寒く、仄暗い。それまで賑やかだった声が懐かしく感じてしまう程、しんと静まり返っている。
教室に入ると、埃っぽい澱んだ空気が粘膜を襲う。思わず口を覆うと、握り拳を口元に添えた先生が、咳払いをする。
先生も、喉のいがらっぽさを感じたんだろう。なのに窓を開ける様子がないのは、換気する程の事では無い……或いは、寒くなるよりはマシだと結論づけたんだろう。
「座りなさい」
教室の真ん中にある、向かい合った二つの席。先生に促されるまま、椅子を引いて腰を掛ける。
「話というのは他でもない。工藤の学力についてだ」
机に置いたファイルを開き、プライベート時間を割いてまで作ったんだろう資料を僕に見せる。
「この前受けて貰ったテストだが……どの教科も白紙が多い。加えて、回答した部分もほぼ間違っている」
「……」
「このままだと君は、志望校どころか高校に入れるかどうかも危ぶまれる」
「……」
ペラペラとページを捲り、全教科の平均点と僕の点数を比較した表を見せる。
……確かに。
まともに学校へ行っていたのは、小学生までで。中学に上がってからは殆ど出席していない。例え学校に行ったとしても、取り巻く空気や環境に嫌気が差し、サボったり早引きしたりしていた。
「……」
ふと脳裏を掠める、一年の頃の学級委員長。
あの時、しつこく授業ノートを押し付けてられて、彼を突っぱねたけど。もし、本当に僕の為を思って、書き写してくれていたのだとしたら……
今になって、胸裏がチクンと痛む。
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