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第56話

只でさえ疲れてるのに。なんで、今コイツに絡まれなくちゃ── 「すみません。今日は無しにさせて頂けますか?」 ピシャリと言い放つ、アゲハの力強い声。 視線を隣に向ければ、キャップのツバを少しだけ持ち上げたアゲハが、カウンセラーを静かに見据えていた。 その視線を辿ってカウンセラーを見れば、アゲハをじっくり観察するように見下ろしている。 「……そうですか」 人畜無害な表情を崩さず、口角を更に持ち上げながら僕に視線を戻す。 「もし辛い事があれば、何時でも話を聞くので……診察日に関係なく、気軽にぼくの所に訪ねて下さいね」 下瞼がクッと持ち上がり、細い目を更に細める。その僅かな隙間から覗く眼に、濁りが混じったように見えた。 「どうも」 アゲハが僕の代わりに答えると、カウンセラーが「では、お大事に……」と定型文を返す。 ざわざわ、ざわざわ…… 去って行く白衣。 ホッとしたのも束の間、津波の如く押し寄せてくる疲労と嫌悪。 指先が冷えて、感覚がない筈なのに。握り締めていた手のひらは、酷く湿っていて。溺れたような息苦しさを感じる中、目だけを動かしてアゲハを見る。 ……大丈夫。 お兄ちゃんが、傍にいるから…… 僕を見つめる優しい瞳。 幼い頃好きだった、温かな眼差し。 「……」 縋るように見つめていれば、膝の上に置かれた握り拳を、アゲハの手がそっと包む。 ざわざわ、ざわざわ…… 耳に戻ってくる、辺りの喧騒。 重ねられた手のひらから陽だまりのような熱が伝わり、強張った僕の心をも優しく解きほぐしてくれた。 * 「──あの医師と、何かあった?」 マンションに着くなり、アゲハが核心をつく。 酷く冷静でいて、何処か重々しさを感じる声。驚いてアゲハを見れば、それまでの柔らかい表情から堅い表情へと変わっている事に気付く。 「今日、……いや。前回も。カウンセリングを受けなかったのは、体力や気力が無かったからだけじゃないよね?」 アゲハの眼が、僕の心の内を探るように見据える。 「……」 ……そう……だけど。 でも、もし本当の事を言ったら── 「何でも話してって、言ったよね? 遠慮なんかせず、ちゃんとお兄ちゃんに話してごらん」 「……」 カタンとダイニングテーブルの椅子を引き、堅い表情のまま腰を下ろす。 つられて僕も相向かいの席に座れば、目を伏せて軽いため息をついたアゲハが、再び僕に射るような視線を向ける。

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