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第70話

「工藤は?」 「……え」 「今も通ってるの? 心療内科に」 「うん」 「なら薬、飲んでるよね」 ゆっくりと瞬きする度、頬に落とした小さな影が上下に動く。 「もしかしたら、薬の相性が良くないのかもしれない。今度、病院の先生に相談してみたら?」 清井の口角が綺麗に持ち上がる。 「……」 ……そう、なのかな…… でも、それとは違うような気がする。 だって……僕にはあんな記憶なんて、ないんだから。 「それから、さっきの事も」 「……え」 「棚村先生にされてた事。ちゃんと話した方がいいよ」 「……」 脳裏を過ったのは、ニヤついた顔をした精神科医の川村。 そして──アゲハ。 言える訳がない。 『気持ち、良かった?』──舐めるように見回される、悪意に満ちた目。 『これからは、お兄ちゃんに話して』──抱き締められ、寄せられる唇。 「……清井は」 細く息を吸った後、力無く声を吐き出す。 「清井は、見なくなったの? 薬、変えてから」 「……うん、そうだね。もう殆ど見ないかな」 そっか…… ちゃんと治したから、自分の足で立ち上がれているんだ。 フリージャーナリストに待ち伏せされた時、僕を自分の背中に隠して、庇ってくれた。 僕なんかとは違う。 僕は……逃げてばかりだ。 「清井の主治医って、どんな人?」 「んー。ひと言で言ったら、優しい人、かな」 「……」 「否定も肯定もせず、ただ静かに話を聞いてくれて。不思議と受け入れられてる感じがして……とても信頼できる先生だよ」 信頼…… ふと思い出されたのは、入院中に毎日病室に訪れてくれた先生。 あの先生にだったら、今の状況を聞いて貰えたかもしれないのに。 「良かったら、紹介しようか?」 「……え」 「工藤さえよければ、だけど」 「……」 清井が信頼できる先生なら、大丈夫かもしれない。 でも、もし川村みたいな奴だったら? 急に不安になって、言葉に詰まる。 「……」 ……そんな事、ない。 もしそうだったら、清井だって嫌な思いをする筈── 「まぁ、とにかく。主治医にはちゃんと話しておいた方がいいよ」 返答できずにいる僕に、清井が柔らかな笑顔を見せる。 否定も肯定もせず、僕の意見を尊重しようとする姿勢に、心の奥がじんわりと温かくなった。

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